僕の昭和、平成。令和に変わる前に少しおさらいしておく。 春だから。
[歌謡曲って感じの昭和]
高校生になるまで家には風呂がなかったので、近所の銭湯に通っていた。まだ昭和の40年代から50年代、当時は風呂のない家も多かった。そしてトイレもくみ取り式で、月曜日になるとバキュームカーがやってきては町内の各家を廻っていて、そのグネグネと動く太いパイプを避けながら、小学校へ集団登校していた。そんな時代。
高校生に入って父親が事故で亡くしたことで、それまで住んでいた家を引っ越すことになり、結果的に家は小さくなったけれど風呂のある古い家になった。トイレもその時は水洗になってたりした。京都府内で一番最初に水洗トイレになったのは園部と言われていて、それは京都出身の力のある政治家の出身地であったと言うことを聞いたことがあるけれど、そういう政治的なことでインフラが整備されていく、そんな時代が昭和だった。
少し時代が戻るけれど、僕が中学の頃は校内暴力というのが全国的に問題になっていて、僕の通う中学も京都では有名な不良の多い学校だった。ヤンキーと言う響きも懐かしいんだけど、暴走族に入ってる奴も居たし、学生服は詰め襟で所謂学ランというやつだった。上着は襟が高くて裾が長ければ長いほど良く、ズボンは太ければ太いほど良いという、バブル前の重厚長大が良しとされた昭和そのものだった。横浜銀蝿や松田聖子、たのきんトリオなど歌謡曲を聞き、聖子ちゃんカットに超ロングスカートを履き、上着はテンテンに詰めて短くした女子が、授業中にハガキに好きな歌手の名前を書いては「ザ・ベストテン」という黒柳徹子さんと久米宏さんが司会をする歌謡番組に応募していた気がする。男は違反制服にパンチパーマや角刈り、リーゼントなんかの喧嘩が強そうな強面がモテ、バイクに乗ることに憧れ、雑誌を読んでは16歳になったらバイクの免許を取るなどとよく話していた。ちょうどその頃、週刊少年ジャンプが550万部を突破とか言ってたような気がする。
そして高校時代は公立高校に進学し、小学三年生から始めた剣道をそのまま続けて部活中心の生活になった。他の部員に比べると弱くて、稽古も休みがちだったので剣道部員と胸を張って言えるかどうか微妙なんだけど、父を亡くしたことで引っ越しをして、色々あって高校を中退する寸前までいったところを無事に卒業できたのもこの剣道部のお陰で、本当に青春真っ只中というドラマがあった思い出深い時代だった。
[バブル時代をスルーして平成]
昭和の終わりから平成のはじめの頃が所謂「バブル」だったと思う。丁度、高校卒業から専門学校、そして就職してデザイナーとして2〜3年という頃かな。専門学校卒業と言ってもデザイナーとして何ができるわけでもなく、当時は徒弟制度的な空気が色濃かった広告制作会社のデザイナーとして地べたを這いずるような毎日だった。世間はバブルで景気が良く、1万円札をひらひらさせてもタクシーが止まらなかったというのは本当の話。大阪にあった僕の会社は、北新地などに契約しているお店があって、そこに行けば接待する際の会計はその都度払わなくても良いという感じだった。仕事も今では考えられないくらいの予算が組まれ、撮影は東京や海外、モデルは一流かタレント、カメラマンやスタイリストなども一流の人たちを揃え、一回のスチール撮影で500万円以上掛けることもザラにあった、そんなバブル時代。でも当時の僕の給料は、手取りで10万円程度。定期代(京都〜大阪)を引くと本当に小遣い程度しか残らなかった。
当時の僕は安い給料でもデザインが学べると思い、この会社にいるのは5年と決めて人の倍仕事をやって、その分人の倍の速さで一人前になることを目指していた。結果、その会社には7年居ることになるんだけど、初任給12万円で始まり、退職する時は30万円近くになっていたから、春闘ベースなんて関係ない世界でバブルの香りくらいはあったかも知れないけれど、今思えば社員として稼いでいた額に比べると安かったなぁと思う。なので、バブルはスルーして昭和から平成に突入する。
昭和から平成と言えば、昭和天皇が崩御された時も僕は大阪に通っていたし、あの重苦しい自粛ムードのなか、広告業界に働くひとりとして様々に対応しなければならないことがあり、色んな貴重な経験をしたと思う。具体的にはあまり記憶がないんだけど。
[そして令和]
平成時代はデザインばっかりしてきたと言っても過言ではなく、会社も2社代わり、大阪から京都へと場を移す事になった。元々生まれ育った京都で独立したかったので、それは当然の成り行きだったけれど。僕にとっては結婚や会社を辞めたり、また就職したり、そして独立したりと激動の時代でもある。ま、結果的に独立したけれど、実は会社員時代に貯めたお金でイタリアに行こうと目論んでいた。1年ほど。で、京都の町を歩いてた時、大阪時代にお世話になった方にバッタリ出会い、会社を辞めたことを伝えるとそのままその方の会社に連れて行かれ仕事をすることに。結局、イタリアへ行くための資金がMac(結構高かった!)へと変わり、そのまま独立することになってしまった。人生とは面白いものだ。
ということで、それから20年。今も京都の片隅でデザイナーとしてバタバタとしているんだけれど、ここ数年はデザイナーよりもディレクター的な動きの方が多くなっている。肩書なんてどうでも良くて、何をしたかが問題なんだけど。独立してからの仕事はこちらを見て頂ければ、どの程度のデザイナーかは分かって頂けると思う。それぞれ色んな事や状況があるけれど、その人のやった仕事=結果をみれば、そのデザイナーの力量や仕事のやり方など見えると思ってるので、僕の仕事を見て判断してくだされば幸いです。
そんなこんなで、平成が終わるとは夢にも思わなかったけれど、とうとう2019年の5月から「令和」となる。おそらく僕は令和時代で引退することになると思うけれど、できれば死ぬまで現役でいたい。会社組織にして何かを残すと言うことは今は考えていないけれど、最近少し思うのは、僕が引退してもクライアント(の会社)は残るということ。ずっと僕がお手伝いするとは限らないけれど、もしずっとクライアントが発注し続けてくれたとしたら、いつかは僕が誰かにデザインを受け渡さなくてはならない。クライアントは年々若く新しい人が担当者になり新陳代謝を繰り返し、組織として受け継いでいく体制ができているけれど、僕は独りなので引き継ぐべき人がいない。ということは結局、付き合ってくださっているクライアントに何らかの迷惑を掛ける可能性があるということになる。
という意味において、誰かに仕事を引き継ぐ必要があると思うし、生涯現役みたいなことはある意味無責任な気もしている。少しだけど。
時代が変わる節目に二度立ち会い、実際の仕事でも伝統工芸の老舗などの継承問題にも振れることが多いなか、いろいろと考えてしまうのです。平成から令和に変わったら、その引き継ぎ問題にも取り組もうと思う。だけど、今はこの喜ばしい空気に浸りたい。休日の朝の二度寝のように。あと少し、もう少しと。