薄紅の風
道の側に名も分からぬ草花が、朝露を纏ってさんざめいている。柔らかな春がようやく訪れ、そちこちに芽吹の喜びが広がりつつある。
まだ日が昇って浅い時刻、河原の道を歩く男の姿があった。齢の頃はそう、三十路手前と言ったところか。綻びを丁寧に繕った羽織、きっちりと揃えた襟が生真面目な性質を垣間見せている。
この男、お家お取り潰しの憂き目に遭い、先頃ようやく有志の夜間見回りの職に着いたところであった。
「さすがに夜通しの警備はきついものだなぁ。せっかくお天道様が拝めると言うに、眠たくて敵わん」
眠気覚ましに河辺に降りると、ザバザバと顔を洗う。丁寧に手拭いを取り出すと、ゆっくりと水気を取り、深く息を吸った。
「やれやれ、これから報告に帰って飯もそこそこに眠り、また夕刻からか……」
手拭いが吸った水気を絞ると、足元に幾つもの輝きが生まれた。緑に弾けるだけでは無く、山吹色や、白地に紅を指したような可憐な花が、キラキラと笑うかの様に咲き始めている。
「あぁ、美しいことだ……」
男はそっと一輪の花に触れ、愛おしそうに呟いた。それは、彼の故郷に咲く花に似ていたのだ。かつて、二世を誓った女に送ったそれと。
馬鹿なことを、と頭を振ると、男はゆるゆると歩き始めた。とりあえず朝餉をかきこまねば、体が持たぬ。先行きの見えない今、この仕事はそれなりに良いものだった。
時代が不穏さを増す中、華やかな街ほど狙われやすい。都ほどでは無いとは言え、大店や花街のあるこの街も、いつ何時、大事が起こらないとも限らなかった。
この夜も、男は見回りをしていた。徒党を組んでの見回りでは、逆に警戒心を煽る。こうして腕に覚えのある者が、遊び帰りのように見せるのが、組織のやり方であった。
「おやおや、これはなんと……」
男はそっと呟く。道の先に、ゆらりと影が現れたのだ。「そこな者、かような刻限にいかがした」
あくまでも柔らかく、酔客の戯言のように声を掛ける。その声に振り返った者に、男は思わず唾を飲んだ。
大方、仕事帰りの女中か、店に属さぬ遊び女かと思ったのだが。
たおやかにお辞儀をした女は、大した商家の娘なのか、上品な着物に更紗の巾着を手にしている。それにしてはお付きの者の一人もいないところが、何やら訳ありなのか、或いは最近噂の怪異なのか。
訝しむ男に、女は恐る恐る口を開く。
「あの……、恥を承知でお願い申し上げます。わたくしめを送っては頂けないでしょうか」
聞けば茶の湯の師匠の祝い事があり、まだ新参の女は片付け一切を押し付けられた挙句、夜道に迷ったと言う。聞き覚えのある商家であったので、これも人助けと女を送って行くことにした。
「まことにありがとうございました。どうぞそのまま、今、お礼をお持ちしますゆえ」
女が木戸の向こうへと姿を消すと、男はさっと元来た道を戻る。本来の仕事では無い上に、礼を貰って後々問題にされては難義だ。
互いにどこの誰かも分からぬ、浅い春の月が見せた幻にしておくのが望ましい。男は、そう己に言い聞かせながら、道を急いだ。
数日後の朝である。
夜間見回りが終わろかと言う頃に、声をかけられた。
「お武家様、先日はお世話をおかけ致しました」
驚いたことに、あの夜送った女であった。
「お礼を、と思いましたら、もういらっしゃいませんでしたので」
朝の光に照らされたその笑顔は、先夜よりも無邪気に見えた。着物も薄い紅を裾からぼかした、あっさりとしたものだった。
「よろしければ、こちら、朝餉に召し上がってください」
竹の皮に包まれたのは、一口で食べられそうな幾つかの握り飯と、この地方の食草を甘辛く煮た付け合わせである。独り身としては、この上なく有り難い。ではこのお礼に、と早朝の道を、街の大通りまで送ることとなった。
別れ際の女は朝の光を受け、輝かんばかりの笑顔を浮かべた。
その日から、女は男の仕事終わりの頃にやって来ては、朝餉を渡し、大通りまでを他愛ない話をしながら歩くようになった。
初めは懸念していた男だが、飯は美味く、取り止めもない草花や季節の話に、次第に心がほぐれていった。女はいつも薄紅の着物を纏い、どこか儚く美しかった。
男がやがて、女に慕情を抱くようになったのも、当然と言えよう。だが、身分の低い男は、その名を尋ねる事すら出来ずにいた。
『このままこうして歩く事が出来るのならば……』
そんな想いを秘めたまま、いつしか春は盛りを過ぎようとしていた。
「こうしてお会いするのは、今日で最後になります」
俯き加減の女が、小さく、告げた。
この頃、女はますます顔色が白くなり、儚さが増していた。
「それは……あなたに何かあったからか。それとも」
もはや後悔しても遅いと分かってはいたが、男は必死に言葉を繋いだ。どこかのお店との縁談が決まったのやもしれない。顔色が悪くなる一方だから、療養に行くのかもしれない。
「初めから、決まっていたことなのです。時になればお別れせねばと分かっていたのです。けれど、貴方様がわたくしを美しいと、愛しんでくださったから……」
消え入るような声でそれだけ伝えると、女はさっと身を翻す。
「待ってくれ!まだ……」
はっ、と手を伸ばした男の真正面から、ざあぁっと強い風が吹いた。
それから、女の姿を見ることはなかった。
男はいつもの道を巡り、やや汗ばんだ体を拭こうと河原に降りて行った。水に手拭いを浸して体を拭いていると、川面からさあぁっと冷たい風が吹いた。
風が足元の草花を揺らす。
と、白地に紅を差した花弁が一枚、ひらひらと舞い上がった。
『あぁ、美しいことだ……』
そう、あの日、花を見てそう言った。
男は舞い落ちる花弁を、そっと手に取った。
「お前だったのか……」
そう呟くと、男は優しく、花弁に唇を落とした。
2024/05/28脱稿