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過去の人

 あの日。
 沈んでいく夕日の中に、僕は君の姿を見た。
 夕日に照らされながら、君は笑っていた。
 逆光で君の笑顔は見えないはずなのに、確かに君は笑っていた。 
 そして、それが僕には悲しかった。
 君は泣いているはずだったから。どうして君は笑っているのだろう。それが僕には分からなかった。
 だから、せめて君の代わりに僕が泣こうと思った。誰かの代わりに泣くなんて、傲慢だと思われるかもしれない。
 でも、僕にはそれぐらいしかできないと思った。
 それぐらいしか、君にしてあげられないと思った。

 彼女がいなくなってから、もう1年が経とうとしている。
 彼女のいない生活にも少しづつ慣れてきた。まだあの日のことを思い出すと少し胸が痛い。
 でも、それだけだ。
 苦しくて呼吸ができなかったり、死んだほうがマシだと思って天井にわっかをかけてみたりなんていうこともない。ただ悲しいこととして自分の中で消化されていた。少しずつ彼女のことを思い出すことも減っていった。
 そんなある日のこと。

 「久しぶり。」と。

 なんの前触れもなく、彼女がまた自分の前に現れた。
 それは本当に何の期待も予兆もなかった。まるでスクリーンが全然別の場面を映し出したみたいだった。
 あまりのことで、僕はとっさに返事をすることができなかった。ただただ、彼女を見つめていた。
 彼女はまるであの時と変わっていなかった。あのときのまま、そのまま自分の記憶から抜き出てきたみたいだった。むしろそれが不自然なようにも僕は思えた。人は変わる。僕も変わった、と思う。しかし彼女は変わっていない。
「久しぶり。」と、僕はやっと声をだした。
「うん。久しぶり。」と、彼女は言った。
 僕は彼女の言葉を待った。しかし彼女は何も言わない。あるいは、彼女も僕の言葉を待っているのかもしれなかった。
 僕はその時、仕事の帰りだった。彼女といたころから職場は変えていない。待ち伏せされた、のだろうか。そんな物騒な考えが頭をよぎる。
「...うれしくないの?」と、彼女は尋ねた。
 その声には少し悲しそうな響きがあった。
「そんなことは...」と、僕は反射的に否定の言葉を言おうとした。けれども。しかし。なんといえばいいのか。妙な気分だった。言葉を紡ごうとしても空回りするばかりで形を与えることができない。
 彼女はしばらくじっと僕のほうを見ていたが、やがて、
「この後、時間ある?」と、聞いてきた。
 僕は特に予定らしいこともなかったから、うん、とだけ答えた。
「よかった。」と、言って彼女は笑った。

 それから近くのバーに二人で行った。ここは昔、彼女とよく来ていた場所だった。
「ここは変わってないね。」
「そうだね。」
「君は、少し変わった?」
「どうかな。自分だとよくわからない。」
「それもそうだね。」
「君は、変わってないね。」
「それって。成長してないってこと?」
「いや、そういうわけじゃないけど…。」
 彼女は少し笑った。
 つられて僕も笑った。
 すこしだけ、あの日に戻れたような気がした。
 それから僕たちは他愛もない世間話をした。最近のニュースや、共通の知り合いの話題とか、ほんとうに他愛もない話を。でもなぜかそれが心地よかった。
 そして、その心地よさに任せて、彼女がなぜ突然現れたのかということには結局触れなかった。
 ひとしきり話が終わり、二人は黙った。バーの落ち着いた音楽が聞こえる。
 なんだか、全部が嘘みたいだった。
 
「もし。」と、彼女が言った。
「もしもの話だけど。」
「うん。」
「あの日の自分を変えられるとしたら。あの日の愚かな自分の行いをやり直せるとしたら。君はどうする?」
「...。」
 なんと答えたものか、僕には分からなかった。
 あの日。
 あの日とは、きっとあの日のことだろう。
 僕は考える。
 仮に過去を変えられるとしたら。僕は何をするだろうか。
 あの日、僕は、彼女は、間違っていたのだろうか。
「多分。多分だけど。」
 僕は答えを探す。
「仮に過去に戻ってあの日をやり直せるとしても、僕はきっと同じ選択をする、と思う。」と、僕は言った。

 彼女は今、どんな顔をしているだろうか。

「そうね。」と、彼女は言った。
「きっとそうだわ。」
 また、二人の間に沈黙がおりる。
 周囲のざわめきの中で、二人の空間だけ取り残されてしまったようだった。

「今日は会えてうれしかった。」
「僕も。」
「あなたは、やっぱり変わってなかった。」
「ありがとう、っていっておくよ。」
 彼女は笑った。
「それじゃ。」
「うん。」
「きっとまた、いつか。」
「また。」
 そういって二人は別れた。

 きっと、もう二度と会うことはないだろう。
 僕はなんとなく、そう思った。

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