
天国の門は、二人ずつでしかくぐれない。
この数年来、カウンセリングに通っている。
いわゆる毒親問題でお世話になり始めたのだが、癒しが進めば進むほど、
人間というものの精神構造の不安定さと不思議さ、
脆さと強さ、残酷さと野山のように深い懐の大きさに、驚かされる。
こんな豊かな世界を知らずにぼんやり生きていたら、
危うく人生の味わうべきほとんどの収穫を取りこぼしたまま、死んでしまうところだった。
世界有数の美しい山脈を誇る国に旅行に行って、窓のないカプセルホテルに閉じこもって毎日3食カップラーメンだけ食べて帰ってくるようなものだ。
それほどに、精神の世界は奥深い。
たった一つの植物が芽を出し、地面に顔を出している葉の形からは想像もつかないほど、広く、意地悪く、その植物の根が張り巡らされている。
苦しんでいるうちはそれが、厄介で邪悪な植物、淘汰すべき、憎むべき悪の華に思える。でも、その表裏一体の裏側までもじっくり吟味してみれば、植物に善も悪もあるはずがない、
それが自分の人生に表れたありがたみ、そして本当は自分こそがこの場所にたどり着きたかったから、わざわざあそこに障害物を用意したのだ、というカラクリがしみじみと理解できてくる。

先日、カウンセリングで、どうしても最近ニュースの内容に一喜一憂とらわれてしまうことを相談した。
もちろん、ニュースを見ること自体が悪いわけじゃない。
それでも、知り合いでもない人のこと、遠くの国の詳しい事情も分かり得ないことをあれこれ考えて、四六時中、脳みそをイライラさせているのだとしたら、それはやっぱり健康的とはいえない。
世の中は今、大きなサイクロンに巻き込まれでもしたかのように、脳がバグりそうな奇妙な事件、不気味な事象が頻発している。
ドイツでもフランスでも国家の財政破綻の噂が囁かれ、政権の屋台骨が静かに崩れていく。とうとうカナダの首相までもが引き摺り下ろされた。
お隣の韓国でもユン大統領の拘束を巡り、一国の存続を脅かす大混乱が起きていて、年始から謎の飛行機事故が連鎖する。
世界中、同時多発的にこんなことが起きるって、おかしくないか?
日本では長くKーPOP押しなんて揶揄された問題が、フジテレビ問題をきっかけに改めて噴出し、とうとう韓国ブームの化けの皮が剥がされそうな勢い。
統一教会の弱体化と、これが無関係であるとはとても思えない。
数年前まで団体さまで見かけた、すごい柄のジャージにヴィトンのバッグを左右にたすき掛けした中国人観光客は、どこかにいなくなってしまった。
それでも、韓国コスメに夢中な女性たちは、変わらず楽しく韓国旅行を企画しているし、不穏なニュースばかり流れてくる中国からは、春節に合わせ観光客がやって来て、それを既存メディアはいかにも呑気な日々が、つつがなく続いているかのように報じている。
その、壊れた洗濯機が音を立てている上でみんなでお抹茶を立てているような居心地の悪さが、この後どうなるのだろうという期待と恐れが、どうしても私を釘付けにする。
いや、本当はどうしてニュースにとらわれてしまうのか、自分でその理由を明確にわかっている。
ニュースを見ながら私の心に浮かんでいる言葉はいつも、
「ほらみろ。私が言った通りじゃないか」だ。
こうなることは、ずっと前から分かっていた。
フジテレビが潰れて終わりじゃない。全てが崩壊していくのだ。
早く、早く。もっと早く。巻きで。
早く、自分が正しかったことを証明したい。
私が正しかったと叩きつけたい。
誰に?
親なんだから自分が正しい、お前が間違っている、と、大人になってもなお私を矯正し、捕まえてはお説教し続けて来た、母親に。
どんな理不尽な場面でも、とうとう最後まで一度も助けてくれることのなかった、父親に。
いつでも私をスケープゴートにして逃げ回っていた、兄に。
数年前、なぜ今の世界をおかしいと思わないの?と真剣に訴えたとき、周囲は誰も私の話を信じてくれなかった。
陰謀論者と揶揄されて、家族、親族とも気まずくなり、両親とは絶縁した。
ここで、現在の世界情勢の問題が、私個人の毒親問題に繋がる。

特に、ワクチンの問題はもはや、急迫の局面に至っているように見える。
新型コロナウィルスが、武漢の研究所から流出したものであるという説が改めて注目され、アメリカ議会では中国に対する賠償請求が始まろうとしている。
研究所から流出したってことは、誰かによって意図的に作られた、人口ウィルスだったということですよ?
そしたら必然的に、あの異例のスピードで開発されたワクチン、世界中で天文学的な売上をあげたワクチンとは、一体なんなんだ、ということになりませんか?
それでも世間は、ぼんやりしたままだ。
あんまり効いてないから4本目でやめた、6本目でやめた、なんて言って相変わらず、毎日電車に乗って会社に行って、学校に行って、税金高いよ、とか、中居くんは許せない、なんて言ったりしてる。
ワクチンに当初心配されたような危険はなく、健康に暮らせている人が多いのならそれは本当に、心から喜ばしいことだ。
それでも、どこかモヤモヤとしたこの思いを、折り入って聞いていただけるような相手は私には誰もいない。
仕方ないからお金を払って、またカウンセラーに向かって切々と訴える。
話を聞いていたカウンセラーはいつものようにメモを取りながら、
「どうして、ワクチンによって「殺される」という側面に注目してしまうか、というところですよ」と私の話を遮った。
私は、自分が今なにについて話していたのか、意味がわからなくなって固まる。
いやいや、側面に注目する、とかじゃなくてですね、実際にファイザーが裁判で毒だって認めてるんですよ、巷のニュースでやってないからご存知ないかもしれないですけどアメリカでは…
なんて言葉がつらつらと出て来そうになるのを、私は一口にごっくんと飲み下す。
不思議なんだけど、世の中にはどうしても分からないこと、次元の違うことを話す人というのがいて、反論しても議論しようとしても、子供と大人が相撲を取ってるみたいになって噛み合わない。なのに、一度持ち帰って自分の殻を破って次元を変えると、その人の言葉がすっと入ってくる。
そしてもっと不思議なことは、その次元を突破するための答えはいつも、自分の中にすでにあるということ。
今の私は、分かってない。この人は次元の違う話をしている。
とりあえず、それがわかっただけで、その場は十分だ。
あとは持って帰って、自分の中の先生と相談するだけだ。
こうやってあちこちで鍵を拾って持って帰っては、私は今日も、一人でせっせと宿題をする。でも私は、この「自分が本当は何を考えているのかにアクセスする」というのが本当に苦手だ。
いや、現代社会においてはきっとほとんどの人が、それをとても難しいと感じるだろう。
あまりに長年、自分を蔑ろにし過ぎて、もうそのやり方を忘れてしまった。
それを、一歩一歩、確かめながら潜っていく。
昨今、巷間を賑わせているフジテレビ。
世間は「中居問題」とか「フジテレビ問題」「上納問題」なんて様々な名前をつけて騒いでいるけど、実際、その問題のどこに引きつけられて注目しているのかは、実は、人それぞれで異なっている。
世の中の動きを見ていると、
「大金をせしめた人に対する怒り」に反応している人が、一番多いような印象を受ける。これは世相だろう。
翻って私の場合はどこかなのか、というと、
フジテレビ崩壊の過程はもちろんだけれど、
当事者以外の人間たちが、新しい時代の到来に気がつかないままある日突然現場に放り込まれてしまった場合、どう立ち振る舞うものなのか。
そこに興味がある。
細かな事件の経緯は二転三転、当事者以外わからないことも含めて諸説あるのだろう。ただ、マスコミや芸能という業界全体において、こういう弱者を食い物にするような空気が連綿と続いて来たことは確かだ。
いや、業界だけに限らない。いじめの構造というのは考えてみるといつもこれで、
いじめられっ子は大概、いじめっ子のグループに属していて、側から見ると仲良しのように見えるものだ。
フジテレビの上納問題だってきっと、やっている側は、いやいや上納じゃなくて、超優良お見合いの斡旋をしてやってるんでしょ?って思ってる。
少なくともこれまではずっと、そう思っていたと思う。
互いにウィンウィン。女たちだってかつては媚態を作って率先して加担していたんだから。
「まあまあまあ」「これはこれは」「あとは良しなに」
そうやって円滑に回して来た、「お主も悪よのう」を地でいく汚らしい世界。
それが事態が一転していざ被害者が悲鳴をあげても、「周囲が助けてやれよ!」などと呑気に言うのは、部外者だからであって、
一番近くにいた人は声には出さなくとも、(なんで逃げないんだよ、なんでそんな危ないところに行くんだよ、もっと要領よくやれよ、こっちまで火の粉が来るだろ)と思っている。
学校のいじめだって、世の中のそういう仕組みは古今東西、みんなこれだ。
なぜそんな奴らに近づくんだよ、やめておけよ、ってきっと周囲は思ってる。
それでも近づいてしまって、
取り返しがつかないくらい陰湿なイジメに発展して、犯罪の域になってしまってから、「助けて!」なんて言われても。
そんな煮詰まった怖いところに、今さら近づけないよ、なぜもっと要領よくやらなかったんだ、なぜこんな状況になる前に自力でちゃんと逃げなかったんだ、となる。
じゃあ、どれくらいの痛さで打たれれば、どこまで触られれば、あるいは全治何ヶ月ぐらいの怪我を負えば、周囲に迷惑をかけ何を捨てても逃げるべき危険水域、緊急バロメーターになるのか。
そんなこと、どこのマニュアルにも教科書にも聖書にも書いていなかった。
イジメと悪ノリ、セクハラ・パワハラとコミュニケーションの線引きは?
その、許されると許されないの境界線は、どこにあるのか。

からゆきさん、という悲劇が昔日本にはあって、
以前、生き残った人の証言をちょっと読んであまりの胸糞に吐きそうになった。
かつて、海外で娼婦になることを覚悟して、自ら船に乗り込んだ女性たち。船に閉じ込められ、あまりに劣悪な環境、ひどい扱いを受けるうちに、流石にこれは聞いていた話とはまるで違うと悟り始める。
船が着いた先でも、いくら娼婦になるとはいえ、想定していたような最低限人間らしい生活はきっと待っていない。
言語もままならない新しい土地で船を下され、右も左もわからない。帰るすべもない。お金もない。助けてくれる人もいない。
船の船員が、どうせこれから売春宿に売りさばかれる予定の、船底に閉じ込めた女性たちを捕まえ順に暴行しに来るのを見て、のちにその地獄から生還した証言の女性は、監禁された場所に散乱する汚物を体に擦り付け、船員の男たちの目を逃れたのだという。
それは、その場で暴行されることを恐れてというよりきっと、上陸先での自分の商品価値が下がることを阻止するための防衛行動でもあったろう。
その後、現地のお金持ちに見初められ結婚したことで、彼女は売春宿を出ることに成功した、とあった。
確かに、他の人より”ひとかたならぬ”努力をしたのだ。
努力をしたから、なんとか生き残る術を得て、彼女は後年、日本に帰国を果たした。そうやって助かる人がいる、ということは、その人の代わりに犠牲になった人がいる。彼女の代わりに、先に暴行された女性がいて、あの客はやばい客だ、あの客は病気持ちだと、身を以て証明してくれた女性がいた。
代わりに犠牲になってくれた人がいたから、窮地を逃れることが出来た。
そういう弱い、犠牲になっていった人たちのことを、あなたは努力が足りなかったから、運がなかったから、って忘れ去ってしまうことが出来るだろうか。
それでも、そんなの自己責任でしょって打ち捨てて、背中を向けて立ち去る以外に、私たちはこの世で生きていくことは出来ないようになっている。
そういう祟り神が澱のように積み重なって、その延長線上にこの世界は出来ている。

この世は地獄だ。
生きるも死ぬも、勝ち組になるも負け組になるも、みんな地獄。
男も女も、吉原に閉じ込められた遊女と何も変わらない。
経済力のある男性と結婚して、退社して知名度を生かした仕事をすることが
女子アナの王道のサクセスストーリー。
最近ではグループを引退したアイドルまでが、芸能界で見つけた良さげなご縁で結婚して女優やったりインフルエンサーになったり。
子供を産んで芸能界から一線を引いて、ほそぼそ芸能人として仕事を続けることが勝ちパターンみたいになっている。
だけどそれだって、平たくいえば、ただの娼婦の身請けだ。
それでも、太夫になった人や、その過程をそばで見ていた人は言うのだ。
そこに至るまでに、彼女がどれほど努力をしたか。
アナウンサーになるのに、芸能人になるのに、私がこれまで、どれほど努力してきたか。
そうやって私たちはまた騙される。
あの子が犠牲になって、防波堤になってくれたからあなたは助かったのだ。
自身も実は被害者でありながら、その炎症や苦しみを最低限にとどめるためには全ての人が、自分も加害者に加担しなければいけないという、地獄。
結局、どうにか努力して微かな幸運のチャンスを掴んだえらい人がいるんじゃなくて、ここが地獄そのもので、私たちはみんな巨大すぎる吉原の鳥かごに閉じ込められ、充てがわれたつまらぬご褒美を奪い合ってもがいているだけなのだと、みんなが気づいていないだけなのだ。
この世のいじめ体質は、どうやったら根絶できるのか。
法律や警察で脅して、ストレスの溜まったいじめっ子を改心させる?
もっと厳しい罰則を課して、管理する?
無能な担任の先生を糾弾、排除する?
そんなことは、本当はなんの解決にもならない。
私たちみんなを一つの檻に閉じ込めて、気の合わない同士を無理に仲良くさせようとする、その矛盾にこそ原因があるのだ。
無理矢理、全員を画一的ないい子ぶらせて仲良しごっこさせて、先生も一翼を担いながら全てを丸く収めようとすること。どちらか一方でもそこから抜け出すという選択肢を、封じてしまうこと。
世の中は、気の合う人と合わない人、趣向の合う人合わない人で構成されている。
気が合わないなら、黙って互いに距離をとればいい。
例え学校であっても、会社であっても、親子であっても。
両親と絶縁して、携帯を着拒にしてからしばらく、何度か、イタズラ電話がかかって来たことがあった。
年取った女性の声で、「もしもし。間違えました」と。
黒電話でかちゃかちゃダイヤルを回していた時分じゃあるまいし。今時”間違い電話”なんてあるはずがない。証拠はないが、時流を知らない母が、娘に電話をしても繋がらないことに気がついて、友達を使って電話しているのだろうとすぐにピンと来た。
「もしもし!」
私を非難するような声で、知らないおばあさんにいきなり怒鳴られたこともある。
親がこんなに苦しんでいるのに、着信拒否にするなんて許せない!
自分が正しいことをしている。娘の私が非道で間違っているのだということを思い知らせて、教えてやって、矯正してあげなければ。
親が可哀想だろ!そうやって罪悪感を植えつければまた以前の通り、首根っこを捕まえられる。空気読めよ!
それが当たり前、もはや自分では自覚できないほど深く染み付いた、これこそが親子の唯一のあり方だという観念。
そういう世界に生きている。彼らはそういう感性のお仲間たちと生きている。
嫌だから距離を置く。逃げる。
そんな選択肢は彼らには存在しないバグなのだ。
そんなことをしたら仕事で干される。学校を辞めたらいい大学に入れなくなって将来が終わる。だから魂を削っても枕しなきゃいけない。
自分のような下等で弱い人間は、いじめっ子にお金をせびられても払い続けなければ安全でいられない。
そんな世界、自分を信じて立ち去ればいい。
それが出来ないと思い込んでいる私たちのあり方にこそ、問題の本質はある。
最近、ネットでアイドルしているモフモフモーちゃんねるさんが、あまりに可愛くて、眩しくて、いつも口開いて見惚れてしまう。どう考えても彼女たちは、私が人生で今まで出会ったアイドルの中で、一番可愛い。
それでも、彼女たちには、かつてのAKBみたいな大きなブームは起こせない。
何が足りないのかって言えば、決定的に彼女たちに欠けているもの、それは影。「不幸」だ。
今までのアイドル、芸能人は、いつも背後に闇を背負っていた。
きっと影では苦しくて、さぞかし嫌なことも我慢していて、(それを応援している今の自分と同等かそれ以上に)歯を食いしばって頑張っている。
だから応援せずにはいられない。
そういう前提があって、闇が初版セットで、その切なさが、危うさが、大衆の大きな興味と関心を惹きつける対象たり得たのだ。
自分たちで、いい曲作れてセルフプロデュース出来て、メイクも衣装もなんとかできて、「加工してます」なんて自らぶっちゃけちゃう。振り付けも、一流のアイドルレベルのダンスもこなせて発表の媒体もなんとかなる、ってなったら、
これのどこに、闇なんか存在出来るだろう。
アイドルと表裏一体になっていたはずの、哀愁なんてもはや微塵も感じられない。
平和であるということは、自由でただ楽しくてシアワセであるということは、
私たちのようなビョーキの人間にとっては退屈なのだ。
ひりつくような、殺されそうな、それに耐えてる悲壮感が足りない。
だから、刺激が足りない。
ずっと前から知ってたよ?
だって、昔のテレビでは普通に女性が芸人さんに音楽に乗ってスカート切られて「いやん」なんていったり、無理やりおっぱい出されたり出したり、普通にしていたもん。
枕も上納も当たり前。
きっとそれを上手く乗りこなした上澄みの一部の人たちだけが、私たちの目に触れた有名人。その足元には、乗りこなせずに消えていった数多の屍が累々と踏みつけられているのだ。
私が生まれる前の時代の女優さんなんて、美しいというだけで、今でいうセクシー女優と同格の認識だった。
アイドル然り、アナウンサー然りだ。
それがいつの間にか、暗い部分に蓋をして、綺麗だったふりしてみんなの憧れの対象にまで上り詰めてしまった。
どうして今になって、かつてと同じような話を聞いて、これまでふーんってスルーしていた人たちが「こんなことするなんて信じられない!」って怒り出すのか。
私にはそれが、本当に面白く感じる。
私が子供の頃は、女優の松嶋菜々子さんが四つん這いになってお尻を振りながら、とんねるずにものすごい卑猥なこと言わされたりしてたのだ。
それを見て、みんなゲラゲラ笑っていたのだ。
今なら、みんなまずは固まって、心の底からドン引きするか、
「マズイ、これはテレビじゃ流せない、隠さなきゃ」って思うか、だ。
せっかく掴んだ〇〇の社員という地位を失わないために、って自分を犠牲にして来たのに、ある日突然目が醒める。
なんでこんなクソミソみたいなものに、自分の魂を切り売りしてまでかじりついていたんだろう?
私たちは今、まさにその、ものの価値がひっくり返る瞬間を目撃している。
どうしてテレビに出るためなんかに、キモイ親父たちのセクハラに耐えるの?
どうしてこんな学校をドロップアウトしないためにって、こんな酷いイジメに耐えるの?
どうしてそんなブラック企業を追い出されないために、ワクチンを打つの?
文春と争って見て勝つか負けるか。
会社ぐるみの上納システムはなかったと、法的に証明できるか。
この人のやったことはレイプかレイプじゃないか。
中居氏と比較して、事件の非道さがテレビのコンプラ的にインかアウトか。
そんな議論はもう、なんの意味もなさない。
へー。そういう会社なんだ。
犯罪者の犯罪を、悪ノリで黙認しづつけ加担する。
被害者のプライバシーを守とか言って、被害者を骨の髄まで利用して、自分たちの立場を守ろうとする。
女衒だの反社だの、どう形容したって構わないけれどとにかくここは、誰かを犠牲にしてその痛みや遺体の上で、自分だけ助かって大儲けしようとする人たちが切り盛りしている会社なのだ。それを大衆に見せて、面白いだろって見世物にして、大金を稼ぐ歪んだ人たちの集団なのだ。
へー。そうなんだ。
そう思われたら、みんな終わり。
こいつら人の皮を被った悪魔だと、全ての人がわかってしまったらもう、「楽しくなければテレビじゃない」なんて標語は、言えばいうほどもはやホラー味しかない。
私たちは悪夢を見ていたのだ。
その意識の変化が起こった時、今まで価値を持っている全てのものは崩壊する。
変わったのは時代のコンプライアンスの方じゃない。
あなた自身だ。

「ワクチンの、殺されるという側面になぜ注目してしまうのか」
カウンセラーの出した宿題の答えに、私はもう薄々気づいている。
私たちは地獄で、殺されようとしている。
自分で自分を、殺そうとしている。
それなのに、イヤだ、という感情を押し殺してそこに居続けようとする。
丸く収めようとする。
嫌だけど、上司に言われたら断れないでしょ?そういう意見を、当たり前に、
「確かにー」「わかるわかる」って受け入れてしまう。
「わからないよ!」「あんた舐めてんの?」って怒り狂ってあげるほど、自分を大切にしたことがない。
今はもう絶縁してしまった両親は、数年前のワクチン騒動の時、私の説得でギリギリで接種をとどまった。
私の話を聞いて、彼らなりにワクチンについて調べ、結果、確かに怪しいかも知れない、といってせっかくとれた予約をキャンセルした。
正直、奇跡が起きたのかと思った。
それでも最後に話したとき、母は、
今の会社で立場が悪くなるとなったら誰だって、ワクチンを打つのは当たり前だ、
そういう状況がないから打たずに済んだあなたは、たまたま幸運だっただけだ、といった。
私は、ああやっぱりなと絶望しつつ、今、その意識を変えなければもう、間に合わない。今自分と向き合わなければ、間に合わないんだよと警告した。
その警告は、届かなかった。
今起きている奇妙なことの連続が、世界規模での連鎖が、まさにあの時私が警告したことにリンクしているなんてきっとあの人たちは今も、気づいてすらいないだろう。
仕方ないのだ。
別にセックス依存症で職場であられもないことしていたって、双方がそれが好きなら構わないのだ。
そうでない人たちには関係ない。
そういう刺激がないと生きていけないほど、脳みその痛みに耐えられない人たちもいるのだ。
変わっていく時流に、ついてこれない人もいる。そんな人は、同じ場所に立って、変わっていくコンプラを「厳しくなったよなあ」って眺めているだけ。
お涙頂戴のメロドラマを、昭和の哀愁を、刺激を、どっぷり浴び続けていないと、心地悪くて生きられない人もいる。
地獄でなんとか平穏無事に、あの人よりは「勝ち組」と言ってもらえそうな組織の末端に潜り込んで、
命の長さと残金の帳尻を合わせて、お金を枯渇させることなく無事に死ぬこと。
その上、子や孫に幾ばくかのお金なんか残せたらそんな人生はもう、
死んで「天晴よ」と神さまたちに宴をしてもらえるほどの万々歳。
私たちはずっと、それが「正しい」「当たり前」の生きる意味だと思い込んで生きてきた。
どんな道を通って行って、いつ、何時ごろそこに着きたいか。
それは個人が決めること。
冬の輝く朝日に照らし出されるところを見たいのか。
春の陽光が緑と戯れているそれを見たいのか。真夏の南中の日差しを浴びてこんがりしながら見たいのか。
どの季節でも、どんな時間帯でも、そこは常に絶景なのだ。
誰にとってもそういった場所に到達する瞬間こそが生きる醍醐味であり、
自分は行かないと決めることすら、また生命の滋味だ。
ずっと、そこに苦しんできた。
自分は自分。
でも地獄に残ろうとする目の前の人を、親を、切り捨て立ち去ることが私にできるのか。
でも、今ならやっと、彼らと笑ってサヨナラできる。
私の中の地獄が力を失っていくのと同じスピードで、現実の地獄も、崩壊していく。
ここが地獄じゃなかったと気付く瞬間は、誰にとっても望めばやって来るチャンスだ。
そのとき開く世界は、絶景だ。

20代の頃に、どうしても着てみたいって衝動買いした着物がある。
以来ずっと箪笥の肥やしにされてきた、可哀想な、ド派手なピンクに大きな花柄、一つ紋の付け下げという絶妙な格の着物。
着物がっていうより、それ着る勇気がすごいね、みたいな着物で、
なんとか帯などのコーディネートでクールダウンしようと試みたけど、
何を合わせてみても、「ワタクシ金銀ピカピカの袋帯以外は受け付けていません」ってそこらの帯を撥ねつけてくるじゃじゃ馬っぷりがある。
歳をとれば取るほど、ますますハードルが上がる。
もういつか娘にあげればいいか、って諦めかけていた。
でも、2025年のお正月、とうとう、ええいままよと着てしまった。
だって、いよいよ2025年がやってきたのだ。
今着ないで、いつ着るというのだ!
新時代幕開けの、お祝いだ。

ずっと、着物を着ること自体にハードルがあった。
私が着物を着ようとすると、いつも母がすっ飛んできて、私がいかに着物が似合わないかをこんこんと言い聞かせに来る。
初めはそれを、
「きっと着物に何か嫌な思い出があるのだ」
「自分には共有できない世界に、私が行ってしまうことが寂しいんだ」
そうやってなんとか母の言い分を勝手に慮って、その態度を美化しようと努めてきた。
でも違うのだ。
行きたい学校も部活も、今日何を着るのかも、どんなメイクをするのかも、
頭の先からつま先まで母親の言う通り。生き方も、仕事も、気がつけば母のお気に召すままから出られなくなっていた。
親切で言ってあげてるんでしょ!
そうやって私という個性は徹底的に殺されてきた。
それでも、この苦しみを脱するために解決すべきは、母を改心させることではない。
私がその自称「親の愛」を美化してあげて、怒りを押し殺して、いい子になって、我慢して受け取ろうと奮闘しているうちは、地獄から出られない。
あれは悪魔だったんだと認めなければ、先に進めない。
それを認められて初めて、次に同じことをされても冷静にお断り出来る、強さが手に入る。

もし自分が陥っていると気づいたら立ち去るべきは、「依存」「犠牲」「自立」である。
先日、読んでいた本の中に、こんな一節を見つけて驚いた。
依存、犠牲はともかく、自立からも立ち去るべき、とは?
私はずっと、自分が離婚もできないでここでグズグズしているのは、
自分が、己一人も養うことが出来ない無能だからだと思っていた。
最初に目指すべきは、まずは経済的自立だ、と思っていた。
その本曰く、
「自立していなくては」という思いは、
他人にあっけらかんと自分を解放することへの恐れから来るのだという。
だから、自分を犠牲にして他人に迷惑をかけないように躍起になる。
確かにそうだ。
私は、人と親密な関係を築くことが怖い。
人にものを頼むことが怖い。
その一方で、安全な、どこかに存在しているはずの私にぴったりの誰かと親密な関係を築きたくてたまらない。
いつでも他者と親密になりすぎないように全方位予防線を張って、
誰かに何かをしていただいたら速攻でデパ地下に走り、頂いた分とぴったり同額の菓子折り買ってお礼をする。
「それ、貰ったものをいりません、って突っ返してるのと同じだよね」
そういえばいつだったかカウンセラーに、そんな風に言われて笑われたことがあった。
私は人にものを頼むのが怖い。頼るのが怖い。
私が人にものを頼むと、相手がこちらの想定の数倍テンションが上がっているのを、エンパスの私はビリビリと感じ取る。
私の特技は、相手の長所を見抜くことだ。
だから、ゾンビみたいに一方通行歩いていくだけのお利口な常識人よりも、
内側でなにかを拗らせて、悶々と考え込んでいるような面倒くさい人の方が好きだ。そしてその人が、どうすれば羽を広げて堂々とそこから出てくるのかを、つい目を凝らして見つけ出してしまう。
これを頼めば、相手はステージに立ったようにいい気分、確実にいいものに仕上げてくれる。その瞬間がたまらなく楽しい。だから頼む。
そうやってコミュニケーションをとるから、たまたまその相手が心が健康なら円滑な関係性が築けるけど、一方で高確率で地雷を踏んで、「くれくれバンパイヤ」を引きつける。
自分で自分の機嫌を取れない人、そもそも取る気がない人というのは結構いる。
それで私は、私にいい気分にしてほしい人に搾取されて、どうやって息して、どうやって生きていっていいのかわからなくなって、
私は結局、自分の力を出すすること、あっけらかんと自分を表現すること、創造性を発揮することが怖くなる。
力を封じ込めて、ただ、無難でみんなと同じ「何か」に見えるように、息を潜める。
着物を選ぶことですら、それは一つの表現だ。
創造することが怖い。目立つことをするのが怖い。
また何かして、嫉妬した母が「心配だから言ってあげてるんでしょ!」って私の創りかけた小さな世界をぶっ壊しにくるのが怖い。
今こそ、その恐怖を乗り越えて、自分の欲求も他人の欲求も恐れない自分になること。
「自立」から卒業して、他者と正常なパートナーシップを築くということは、
誰かと相互依存の関係になるということだ。
自然な相互依存の関係が構築できるようになれば、自分は誰ともつながっていないという孤独感や主導権争いや、活気のない死んだ人間関係が解消され、豊かな人生が始まる、とその本にはあった。
私が生まれてこのかた、まだ見たことのない世界だ。
「天国の門は、二人ずつでしかくぐれない」という言葉がある。
ネガティブな出来事は、いつでも私たちを上昇させようとするガソリンだ。
私たちを苦しめる相手は実は、「お前は今こそ、あの門をくぐれ」と背中を押してくれる、最大の支援者だ。
そして時には逆に、もっと高い位置から、今の自分には理解できないような次元の言葉を話し、私たちの頭のすぐ上にまた一つ、別の次元があると気づかせてくれる人がいる。
そうやって私たちは、誰かと関わるたび、少しずつ、登っていく。
変わっていく。
天国の門は、きっと一つじゃない。
そうやって、私たちは誰かと一緒に何回も何回も、天国に向かって進んでいる。
地獄を抜けた先にある、豊かな人生って、どんなだろうか。
踏みしめた足の裏には、どんな感触が伝わるのだろうか。
いよいよ、それを確かめに行く時間だ。