
【映画感想】「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」は何故生まれたのか
※ネタバレありです。必要ないかもしれませんが、念のため。
子どもの頃に読んだポケモンの攻略本に、「最強のパーティーはミュウツー6体だ!」なんて記事があった。あまりにご無体だと思うのと同時に、ミュウツーが当時どれほど強大な存在だったかを子どもながらに理解したものだ。だからあの頃はミュウツーが一番強いと思っていたし、「スマブラDX」でもミュウツーを使っていた。戦績は芳しくなかったが。
そんなわけで、金曜日に公開された「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」を観た。1998年に公開されたポケモンの映画「ミュウツーの逆襲」を3DCGでリメイクしたものだ。
気になるその内容は、オリジナルの「ミュウツーの逆襲」とほぼ同一である。この手のリメイク作品には新要素が盛り込まれる事もあるが、この作品にはそういった要素は全く見られない。せいぜい端役の声優が変わったり、1998年時点では無かった技が多少使用されている程度だ。
しかし、CG技術と今回の為にアレンジされたBGMでリメイクされただけあって、演出や映像は非常に見ごたえのあるものとなっている。ミュウツーの作リ出す嵐は更に激しく映り、ポケモン城の清廉ながらも妖しい雰囲気をより強く実感できるようになった。中でも、ギャロップのたてがみの美しさは思わず見惚れてしまう位だ。「人のCGが不気味だ」という声も見られたが、これは恐らく当時の画風をCGで再現しようとした結果なのだろう。
そして何より、市村正親が演じるミュウツーはやはり素晴らしいと再認識させられた。腹の底に怒りを溜め込んでいると解るあの声色でなければ、「ミュウツーの逆襲」に登場するミュウツーは務まらないのだと痛感させられる。
最初のゲームである「赤・緑」の発売から20年以上経過した今となっては、宇宙を創造したなんて伝承もあるでたらめなポケモンまで登場している。客観的に見れば、彼等に比べればどんなポケモンも雑兵に過ぎないのだろう。けれどもやっぱり、自分の中ではミュウツーが一番強くて格好いいのだ。
EVOLUTION版という「ミュウツー」
さて、先程述べた通り、EVOLUTION版は極めてオリジナル版に忠実な造りとなっている。当時ゲストとして参加していた小林幸子や市村正親だけでなく、同じ立ち位置のトレーナーにレイモンド・ジョンソン(初期のおはスタに登場していた黒人男性)をキャスティングまでする辺り、その意気込みは相当なものだろう。
そこで浮かんでくるのが、「そこまでして原点に近づける必要があったのか」という疑問だ。極限までオリジナル版に近づけたEVOLUTION版は、身も蓋もない事を言えば「コピー」である。まさにこの映画は、オリジナル版というミュウに対するミュウツーとも言える存在なのだ。
オリジナルをよく知る立場からすれば、「何故わざわざ作る必要があるのか」と苦言を呈したくなる人もいるだろう。完全新作が見たかったと落胆した人も少なくないかもしれない。「焼き直しに意味があるのか」と渋い顔をする気持ちもよく解る。
しかし、「ミュウツーの逆襲」だからこそ、コピーめいたリメイクを生み出す意義があったとも考えられる。コピーとして生まれた生命に意味はあるのか、そこに優劣はあるのか。EVOLUTION版はその出生を以てして、これらのテーマにより深みを与えているのだ。
恐らく、今後オリジナル版とEVOLUTION版を比較した論争が起こるだろう。それこそ、コピーとオリジナルが泥臭く争っていたあのシーンのように。それが虚しく意味のない行為である事を、これら2つの作品がその身で証明しているのだ。映画は「いきもの」ではないが、生まれてきた存在に変わりはないのだから。
それに、かつてオリジナル版を劇場で観た子どもたちは、その多くが子ども連れの親になっているだろう。かつて大スクリーンで目にした感動を、自分の子どもと一緒にもう一度体感できる。それだけでも、この映画が公開された事には十分すぎる意味があると思える。
「いきもの」という存在証明
劇中にて、コピーとして産まれたポケモン達はオリジナルのポケモン達に勝負を挑む。ミュウツーを含めて、彼等はオリジナルを乗り越える事で自分達の存在を証明しようとするのだ。「最強であれ」という願いの元に造られたミュウツーは、ひときわその思いが大きかっただろう。
けれどもそれは、オリジナルに自己の存在を幻視しているに過ぎない。コピー元に見出した自分の存在価値を奪おうとしているのであり、結局はオリジナルに依存してしまっているのだ。泣きながらオリジナルをはたくコピーピカチュウは、親に玩具をねだる幼児の様にも見える。
そして、こうしたコピー達の「逆襲」は、サトシの決死の行動によって阻まれる。ミュウツーとミュウの直撃を受け石化したサトシは、オリジナルとコピーの両方が流した涙によって復活するのだ。両者の涙に優劣はなく、彼等は等しく「いきもの」だという事を示すシーンである。
「いきもの」にコピーもオリジナルもないという気付きをそこで得た事で、ミュウツーは一つの個体として「誕生」する事が出来た。冒頭で「生まれていない」と零した彼は、クライマックスでようやく「生まれた」と口にするのだ。
近年では、自分の個性について思い悩む若者も少なくはない。最近話題になったとあるYoutuberの「同級生がロボットに見える」といった発言も、そこに端を発しているのかもしれない。「皆と同じだ」という焦り、無個性に対する恐怖は、自分も経験しただけに痛いほどよく解る。
しかし、例え無個性であっても、他人と似たり寄ったりでも、それは自己否定の材料にはなり得ない。自分が「いきもの」として存在しているのなら、他者から排除される謂れも、ましてや排除する必要もないのだ。他ならぬコピーとして生まれたポケモン達の結末が、それを証明している。
「いるんだからいるんでしょ」。存在証明など、それだけで十分だ。