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自己紹介 vol.3 教師が子どもを持つということは?

おぎゃー


可愛い可愛い我が子よ!
産まれてくるまでの数々の試練を
潜り抜けて産まれてきた我が子は、
絶対に運がいいハズ!笑。

そう思わざるを得ないほど、
妊婦で小学校の先生をするのは、
超ハードだった。

吐きそう

そう。吐きそうだけど、吐けない。
とにかく、毎朝、
コンビニでおでんの大根と出汁を買って
職員室で耐えた。白だしの味が、なぜか私を落ち着かせるのだ笑。
朝と夕方が、猛烈に気持ち悪くて、
どう乗り切るか必死だった。

妊娠が分かった時、
朝の7:30〜極寒の真冬の中、
運動場でバスケ部の顧問に任命されて直ぐだった。
新年早々、バスケ部の顧問として指導することに、
不安しかなく、若手なのに動けない自分を、
先輩はどう見ているのか、
それも不安でしかなかった。

2回の危機

妊娠が分かってから直ぐに、
流産してますね…と。
涙が溢れてきた。
やっぱり、赤ちゃん欲しかったんだ…と、
自分の気持ちに気づいた瞬間。

でも、別の病院では、大丈夫!
お腹の中にいますよ!と。どういうこと??
そんな誤診ある?と、思いながら、
娘はお腹の中で順調に成長した。

そして、新学期が始まり、
低学年の担任に。
本当に話が伝わらない子ども達よ…笑
可愛いんだけどさ…
それを飛び越えて、毎日超ハード。
『こらー!!!何回言ったら分かるの??!』
『ダメダメダメ!ほうきで、遊びません!』
そんなこんなで、家庭訪問が終わったGW前に
急に大量の出血。

流産したのかも。。。
大丈夫なんかな…もうダメなんかな…
病院へ電話したら、
大きな病院を勧められて、
泣きじゃくりながら、車を走らせた。

結果は、、、赤ちゃんは無事だった。
我が子は、2回もの危機を乗り越えて、
生きている!!なんていう生命力!!!

私は、とにかく、安静にすること…と。
切迫流産になりかかっているから、と。
学校の業務で安静にって、
なかなか難しい…どうしよ?
主治医から、1ヶ月の休職の診断書が出された。

辛っ

その時、妊婦に対して2名体制で、
補助の先生がいてくれた。
私の後任として、予め、
数ヶ月一緒にクラスを受け持つのだ。
今じゃ、考えられないが、
当時は人材不足じゃなかったのか。
私が休んだとしても、
その先生が担任をしてくれる。

にも関わらず。
当時の教頭へ、切迫流産で、
休まなければならないことを伝えると、
『どこの病院や!?(そんな診断書書くのは)』
という意図なんだろうか。

ひどい話だ。まぁ、でもいい。
とにかく、私は休ませてもらおう。
我が子を3回目の危機に陥らせるわけには
いかないんだから。
この頃から、仕事への考え方が変わってきていた。

待ち望んだ産育休へ

切迫流産で1ヶ月休んだ後、
復帰すると、、、
クラスは荒れ果てていた…
物理的にもぐちゃぐちゃな教室。
子ども達は精神的にもぐちゃぐちゃ…
1ヶ月で、こうも変わるのかー!!

後任の先生は、子ども達とのコミュニケーションの取り方に四苦八苦していたし、子ども達は先生を舐めていた。
私は、ヤンチャな男子を一蹴して
なんとか産育休までクラスを落ち着かせた。

その状況は、私が産育休後、
同じことになってしまったようだ。

育休復帰後の1.5倍速の生活

生命力の強い我が子を産み、
育休ライフを満喫しまくった私。

近所のママ友は、教師が何人かいて、
復帰の話や2人目のこと、
いろんな悩みや不安を共有して、
子育てしながら、ゆったりした生活を送っていた。

2人目に恵まれなかった私は、
2年半後に復帰した。

復帰直前、どれだけシュミレーションしても、
上手くいくのか、不安しかなかった。
でも、あらゆる対策を講じたのが、
両立できたポイントだったと思う。

祖父母は遠方に住んでいて、
普段の協力は難しいのだが、
4月の慣らし保育だけは、
義母に2週間、住み込みしてもらい、
協力してもらった。

それでも復帰後は楽しかった

復帰した年、それはそれは、
最高の学年だった。
学年主任は少し年上の男性で、
とにかくユーモアたっぷり。
何でも面白く変えてくれる。

保育園のお迎え時間に応じて、
退社時間をいつも気にしてくれた。

さらに、4クラスで1クラス30人学級!!
他のクラスの担任も、穏やかな先生と、
若手のはつらつとした先生。
何より、子ども達の数が少ない!!
丸つけが直ぐ終わり、なんて楽なんだ…笑
異動の前年度だったので、学年会計を担当して、
経験を積ませてもらった。
(学年会計とは、学年児童が使う教材や備品を計算して、保護者へ徴収する金額を計算する係。これ、教師がやる仕事なのか?というほど、事務的な仕事でややこしく、神経を使う)

秋頃に妊娠が分かった。
その頃、音楽会の担当決めで、
楽器を運ぶ役割に当たっており、
心拍も確認できてない状況だが、
不安でしかなく、担当変えを希望したく、
校長に妊娠を伝えるしかなかった。
その時のことは↓この記事に詳しく書いてある。

育休復帰1年目は、
悲しい出来事もありつつ、
夫婦2人で何とかやってきたのだ。
娘も、保育園が大好きで、行き渋りは
ほとんどなかった。
ただ、7:00〜19:00まで預ける我が子に、
21:00までの寝かしつけをするのは、
私にとっては、かなりハードだった。
19:00過ぎに帰宅してから、ご飯、お風呂、洗濯、片付け…寝かしつけでほぼ同時に寝落ち。
21:30が寝かしつけのデッドラインと決めていて、
金曜日の夜は、何時でもokと、自由にしていた。
一週間終わると、身体はぐったりしている。

我が子のおしゃべりが上手になってきたり、
お歌が猛烈に可愛かったり、
出来ることが増えてきて、感動の嵐。
魔の2歳児と言われるが、2歳半〜3歳半は、
ほぼ保育園の先生に育ててもらった。笑
年少となる年に、また保活をしないといけない。
そこでも我が子はついていた!笑

1名枠に滑り込んだのだ。
保育園1年目も1名枠に入園。笑!
でも、2歳児クラスまでしかなく、
年少からは別の園を探すことに。
2号枠として希望の園に入園することになったのだ。
この時は、かなり園児が多く、
正直、諦めかけていた。
兄弟加点もなく、点数は飛び抜けて高くない。

それでも、入園できた4月。
仕事も楽しい。我が子も可愛い。
家庭はなんとか回っている。

その年、私は異動だった。
異常なまでに、やりにくい学校だった。

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