-小説- うたたねのこぼれ種 【2.いちご】
見上げた空はとても優しい色をしていた。遠くに雲が薄く浮かんでいる。シンの店「珈琲と音楽 うたたね」のそばにある川は今日も静かに流れていく。開店前に店の周りを散歩して、庭の様子を眺めるのがシンの毎朝の日課だ。朝の空気をしっかりと吸いながら歩いているうちに、体が起きてくる。
庭のハーブに引っかかった枯れ葉を集めていると、かすかにいい香りがしてくる。指に触れる朝露が心地よく、不思議と指先が温まってくる。ビオラの花を摘んでいると、鮮やかな赤色のてんとう虫が手元を横切っていった。てんとう虫は、まだ眠る草花を起こして回るように、オオイヌノフグリのあいだを駆けていく。その姿を見ているうちに、シンは愉快な気持ちになってきた。
シンは子供のころ、自分の部屋のように、この庭で時間を過ごした。
シンの両親が料理屋をしていたため、店の裏手にある庭で、シンは一人で遊ぶことが多かった。一目で見渡せるほどのこんなに小さな庭が、子供のシンにとっては、とてつもなく広い世界だった。
毎日違う発見があった。次から次へと草花が花を咲かせ、季節によって目まぐるしく変化していく庭での冒険が、たまらなく楽しかった。土を延々と掘ったり、ホトケノザの蜜を吸ったり、四つ葉のクローバーに憧れて、三つの葉の一枚を半分にちぎって、「四つ葉のクローバーあったよ!」と母親に見せたりもした。
もう少し春が進むと、庭の一角に、すみれが群生する。この庭に咲くのは、白いすみれ。一輪でも清らかで儚げな花が、いくつも集まるのだから、それはもう美しい光景なのだ。神聖な空気をまとった、特別なひと時を届けてくれる。シンの母も毎年すみれが咲くのを楽しみにしている。
シンが庭で料理ごっこをしていた時、やっと咲いたすみれを、片っ端から収穫し、スープの具にしてしまったことがあった。すみれのない庭を見た母親は、とてもさみしそうな顔をした。それども、そのスープを「おいしい」と言って、ちゃんと食べるまねをしてくれたのだった。母親を悲しませた子供時代の思い出がよみがえる。
その時の母親の顔がよぎるから、シンが花を摘む時は、飾るのに必要なほんの少しだけにしようと思うのだ。
シンの母は花が好きで、料理屋には、いつも花が飾ってあった。シンは、母が丁寧に活けた、派手ではないけれど、ささやかな美しさのある季節の花が好きだった。「料理屋 こやま」から「珈琲と音楽 うたたね」に変わった今も、シンは同じように花を飾り続けている。
庭を見終えた後、シンは店の前に立つ。「うたたね」の看板に重なるようにして、ふわふわとしたミモザの花が集まってあふれるように咲いていた。春を歌うように、黄色い花が揺れている。見上げると、ミモザに包まれている気持ちになる。かすみがかった深い森のような、澄んだ水の香りを感じる。ミモザの花が咲くたびに、その鮮やかさに驚かされる。そして、あの気まぐれなプレゼントを思い出す。
店のシンボルツリーがミモザになったのもまた、母の花好きがきっかけかもしれないとシンは思う。
あれは、高校の卒業式の次の日。シンは自分の部屋で、もう学校へ行かなくていいんだというふわふわとした不思議な気持ちで、天井の木目を眺めていた。その時、自転車のブレーキ音が騒がしく聞こえたかと思うと、家のチャイムが鳴った。玄関を出ると、そこに友達の砂原が立っていた。
「こちらをどうぞ」
かしこまった口調でそう言って、砂原が差し出したのは、黄色い花束だった。そのころには、庭遊びも草花からも遠く離れていたし、花束をもらうのは初めてのことだったから、シンはどうしたらいいかわからずに、ぼーっと突っ立って、ぽつりと言った。
「何で」
「何でじゃないよ。今日、誕生日だろ。誕生日おめでとう」
「あ、そうだった。ありがとう」
この日は、シンの誕生日だった。シンが受け取ると、花束は腕からこぼれ落ちそうなほどの大きさだった。テレビで見る、百本の赤いバラをもらうシーンは、こんな感じなのかなとぼんやり思った。
「でも、これはシンにじゃなくて、お母さんにだからな。シンのお母さん、花が好きなんだろ。これミモザって花らしいよ」
「ミモザ。こんなつぶつぶした実みたいな花なんだ。でも、何でまた母さんに?」
「何でじゃないよ。誕生日はそういう日だろ。シンを産んでくれてありがとう。おかげで僕はとても楽しい高校生活が送れました。そういうことだよ」
砂原はシンの目をまっすぐに見てそう言った。もうこうやって砂原と喋ることもなくなるのか。もう砂原のそういう物言いを聞けなくなるんだ。卒業ってそういうことなのか、とシンは急に理解した。
「何か泣けてくるよ」
「そんなこと言って、シンは泣かないだろ。じゃ、帰るわ」
「え、わざわざ来たのに、もう帰るの?」
砂原の家からシンの家まで自転車で一時間はかかるはずだ。
「用は済んだ。じゃあな」
砂原はそう言うと、あっさり自転車の向きをぐるっと変えて、そのまま振り返ることなく風を切って去っていった。あっという間のできごとに、シンとミモザの花束は取り残された。
そして、シンはそのまま急ぎ足で店に向かった。花束を手にして歩くのは、照れくさかったけれど、とても誇らしかった。砂原もきっと同じような気持ちでやってきたのだろう。
シンは店へ飛び込むようにして入ると、店の支度をしていた母親へ、ミモザの花束を渡した。砂原のことを話すと、とても驚いた顔をした。
「本物のミモザは初めて見たよ。こんなにきれいなんだね。ありがとう。何より、慎司(しんじ)に、こんなに素敵なお友達がいることが何より嬉しい。本当に嬉しいよ」
そう言って、母親はポロポロと泣きながら笑っていた。
今考えると、あのころは今と比べて、ミモザはそんなに出回っていなかったんじゃないかとシンは思う。あれだけきれいでたくさんのミモザをどうやって用意してくれたのだろうか。たまたま花屋で見つけたのか、どこかでミモザのことを知って探してくれたのか、わからないけれど、いいことを思いついたと言わんばかりの砂原の表情を想像するだけで笑えてくる。
すっかり母のお気に入りの花となったミモザを、シンは「うたたね」のシンボルツリーとして植えたのだ。春を告げるミモザが、嬉しい驚きを懐かしくよみがえらせる。
砂原とは、あの日以来会っていない。
「元気にしてるかな」
シンはミモザに向かって、声に出してみる。
砂原は大学で水の勉強をすると言っていた。きっと今も誰かに水のことを語っているのだろう。海外に行ったらしいという話も聞いたから、世界のどこかでおいしい水を探し求めているのかもしれない。今はどんなTシャツを着ているのか、聞いてみたいとシンは思った。
砂原がそんなキザなことをするのなら、曲ぐらいプレゼントしてもよかったのかもしれない。これは君の曲だよって。そんな風に言ってしまえれば、今の何かが違っていたのだろうか。そんなことを思っても今更だと笑ってみる。何年も前のことを、こんな風に、本当にどうにかできたのかもしれないと考えていることに、自分で驚く。いつだってそうだ。自分の気持ちがわからない。感情は遅れてやってきて、気づいた時には過ぎ去ってしまっている。今の生活で、この人生でいいのだと信じているのに、ふとした時に小さな後悔の山が顔をのぞかせて、人生を変えられたのかもしれないなんて思う。どうかしている。
そんなことを考えながらうつむいた視線の先、ミモザの木の根元に、ひっそりと一輪の花が咲いていた。小さなビオラの花だった。店に飾ろうと庭で摘んできたビオラと同じ淡い紫色をしていた。いつの間にかこんなところにも種が届いていたんだ。
考えすぎる時は動いた方がいい。シンは店へ入り、窓を開けて、朝の空気を取り込む。シンも店と共に深呼吸をする。朝の光の粒で満ちてきた店が、今日一日を始める。
小さなビンにビオラを生ける。水仙、ムスカリ、ミモザなど、飾ってある他の花の水換えもする。花々はそれぞれのテーブルで、過ぎゆく季節の美しさを見せてくれる。
昨晩作ったデザートの仕上げをしたり、お皿を冷蔵庫で冷やしたり、レモンウォーターを作ったり、動いているうちに時間はあっという間に過ぎて、頭がすっきりとしてくるから不思議だ。開店準備が整ったところで、シンはふと思いついた。
材料は、バター、薄力粉、卵、グラニュー糖、生クリーム、はちみつ、それから、いちご。今日のいちごは小さめだけど、葉がピンとしていて、しっかりと赤く、つやがある。絶対においしいはずだ。今日は、特別に、いちごをたっぷりと使ったケーキを作ろう。
あの音楽室での時間は戻らない。進んでいくばかりの時間の中で、手を使い、体を動かす、この日々が大切に思える。材料を丁寧に混ぜ合わせていくように、これからもこうして時間を重ねていく。
店内にスポンジの焼けるいい香りが漂ってくる。
今日、シンはまた一つ年を重ねた。ミモザの花束を届けてくれる人はいないけれど、自分の誕生日を祝うために、自分で自分のためのケーキを作る。そういう誕生日があってもいいはずだ。
きれいに焼けたスポンジに生クリームを広げ、その上にスライスしたいちごを並べる。もうすぐ開店の時間。ちょうどいちごのケーキができあがった。今日はどんな一日になるだろう。シンは楽しみに思った。
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