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-小説- ミモザからはじまる 【3.桜】

懐かしい気持ちがした。安堵したとも言える。
「うたたね」の前に立つ亮は、坂道を登ってくる若葉の姿を見つけた。駆け出しそうになる足を抑え、うつむいたまま近づく足音を待つ。
見上げる若葉の顔が視界に入る。
「こんにちは」
何を言おうかためらっていたが、若葉の明るい声を聞いて、亮はまっすぐに言った。
「この前は、すまんかった」
「いえ」
「来てくれて、よかった」
「来ますよ、もちろん」
若葉が笑った。
「待っててくれたんですか?」
「いや、俺も今来たとこ。たまたま店の前におっただけや」

亮と若葉は、カウンターに立つシンの向かいに並んで座った。
「いらっしゃい」
「この前はありがとうございました」
シンは若葉にくしゅっと笑って見せた。
「コーヒーちょうだい。あと、チーズケーキある?」
亮はシンが余計なことを言わないうちに、すかさず注文する。
「ありますよ」
シンは笑いたそうな表情で答えた。
「私も同じもの、お願いします」
シンはマスターの顔で、てきぱきと手を動かし始める。
「色々考えた」
「私も色々考えました」
そう言いながら、若葉は姿勢を正した。
「セットリストな。やっぱり若葉が言っとった『around』で始めようと思う」
「あ、そっちですか」
「他に何がある?」
「あの、この前の。彩さんのこととか」
来たか。小さな若葉の声に、亮は大きな声で応じるしかなかった。
「それ言う? 若葉の目の前で怒られて、めっちゃ恥ずかしかったわ。落ち込んだで」
亮は、先に謝って、もうその話はしないつもりだったのだが、若葉はそうではなかったらしい。
「私は、その話するだろうと思って来たんですけど」
「その話はせん。ライブをやる。それだけや」
ビシッと言ってみせた。
「私は、ライブの前に彩さんと会えてよかったと思ってます」
若葉はパシッと跳ね返し、勢いよく口元に傾けたグラスの水が光って消えた。
「私は、自分がどういう音楽をしたいか、個が大切だと思ってました。でも、そんな単純なことじゃなくて、思いを背負って立つんだって覚悟みたいなものができました。いい加減な気持ちでライブしちゃいけないって思いました。適当にするつもりなんて最初からないですけど。だけど、初めだからうまくいかないかもしれないって気持ちはありました。それじゃダメなんだって。今までのRound Scapeを支えてきた方を納得させるものじゃないと意味がない。プレッシャーです。基本、見てもらえないのが私なので、いいプレッシャーです。値踏みされるんだとしても、見てもらえるんですから。新しいRoundにふさわしいかどうか」
「それは前向きなんか」
「私にとっての前向きです。彩さんに見てもらいたい」
「強いな。でも、来てくれるかどうか」
「え? まだ仲直りしてないんですか」
「そんな簡単にはいかん。でも、多分来る」
おいしそうな香りと共に、シンが声をかけた。
「おまたせ。コーヒーと蒸し焼きチーズケーキです」
チーズケーキのふわふわ感がフォークに伝わる。口の中でしっとりとなめらかに溶けて、バニラビーンズの香りがふっと広がる。
優しい甘さが、今日何を喋ろうか、何も喋らないか、どんなやりとりになるか、固くなっていた気持ちを溶かしてくれた。
「何個でもいけそうや」
「本当に。おいしい」
若葉はぐるぐるしていた思いを言葉に出して、もうすっかりすっきりしたような顔をしてチーズケーキを食べている。
「そうそう。これ見て。彩から、ライブのフライヤー案、届いたよ」
シンからフライヤーの画像が表示されたタブレット端末を受け取る。二人で画面をのぞき込む。
水色の背景に、一枚の写真とRound Scapeのロゴが配置されている。
「これ」
「これってあの時の写真ですか」
「そうだよ。記念すべき若葉ちゃん加入の日。遠い昔のような気もするけど、一週間前なんだね」
シンが目を細める。
あの日、「うたたね」の前で撮った写真。亮と若葉が顔を見合わせて笑っている。外から見るとこういう感じに見えるのか、思ったよりも違和感がなくて、意外と無しじゃないかもな、そう亮は思った。
「いい写真でしょう。気に入ってるんだ。でもデザインは彩におまかせだから。素材は提供したけど彩の判断だよ。メール読むね。『写真を見て、空の色が思い浮かびました。春の空色。淡くて柔らかい感じにしてみました。もっとパッと目立つ感じの方がご希望でしたら、お申し付けください』とのことですよ。どうでしょう、お二人さん」
嬉しそうなシンの声に、若葉は背筋をピンと伸ばして答えた。
「何か、感動しました。こんなにいい服を着せてもらったら、しゃんとしなきゃって、気が引き締まりました」
「さすが彩やな。ええな」
 亮がうなずくのに続いて、シンもうなずいた。
「うん。やっぱりいいよね。これで決定だね」
「何か緊張しますね。本当にライブするんですね」
若葉はふわりとした声でつぶやいた。
「始まるっていうワクワク感あるよね。僕は楽しみで仕方ない。ライブの日のドリンクを考えながら、そわそわしてるよ」
シンは、ライブに合わせたメニューに思いを巡らせている。
「いつも通りやったらいいだけや」
そう言ってみせた亮にも、久しぶりの緊張感があった。自分の作った曲で、いつもの店で、いつも通りに、そう思っていたけれど、若葉とのステージは初めてなのだから無理もない。ライブと向き合う若葉からは初心とも言える気持ちが十分に伝わってきて、亮にも懐かしくて新しい力を与えてくれる。亮はその力を逃さないように、膝の上でそっと手の平に力を込めた。


柔らかい空気の中、満開の桜が揺れている。川のこちら側、向こう側、遠くの木々の間、あちらこちらで桜が見守っている。「うたたね」の前には、彩がデザインしたポスターフライヤーが貼られ、ライブ当日だと知らせている。見上げれば、ポスターと同じ色をした春の空が広がっている。
ミモザは、花の季節を過ぎ、輝く銀色の葉をふるわせている。
亮と若葉は、スタジオで音合わせをしてから、ライブ会場である「うたたね」の戸を開いた。
「おはようございます」
「おはよう。いよいよ今日だね。よろしくお願いします」
シンが、ライブ用のセッティングが進む店内で二人を出迎えた。
「よろしくお願いします」
若葉が深々と頭を下げた。それにつられて亮も小さく頭を下げた。
「セッティング、こんな感じで大丈夫かな」
座敷に作られた小さなステージ。ステージ前からはテーブルを動かしてスペースを広く取り、後方はテーブルのある席にしてある。カウンター席からでもステージが見える。
「おう。完璧や。ありがとう」
亮は、店内を眺めてうなずいた。そこに立つ自分と若葉、観客の姿を思った。
若葉は、いつものカフェの様子が浮かぶだけで、ライブの風景を思い描けずにつぶやいた。
「ここにお客さんが」
「たくさん来てくれる。みんな楽しみにしてるよ。奥の部屋、控室に使って。何かあったら遠慮なく言ってね」
シンはそう言って、準備に戻った。

リハーサルの後、小さな部屋で亮と若葉は言葉少なに時を過ごす。控室として借りているのは、シンが休憩室として使っている部屋だ。開場時間を迎え、控室にもざわめきが伝わってくる。いつもの「うたたね」は壁一枚向こう、すぐ側なのに、遠く感じる。
若葉は、セットリストを書いたノートを開いたり閉じたりしている。亮は目をつぶって、その音を聞いていた。
「もうすぐ、ですね」
若葉が小さく声をかけた。
「ああ」
亮は目を開いて、若葉を見た。
「がんばります」
「いつも通りに。できたらええな。楽しめたら」
「楽しめたら楽しみましょう」
そう言って若葉は小さく笑った。
「久しぶりやな。なんかもうこんな気分になることないと思っとった。そわそわというか、ふわふわというか」
「はい。走り出したい気分というか」
「ありがたく味わうことにする」
亮は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと瞬きをした。
「ここから始まりですよね」
「せやな。つい終わりを思いがちやけどな」
「始まり続けるんですよね」
「始まり続ける」
亮の中で、その言葉が響き続けていた。
「若葉。小さくならんでいい。大きく見せんでもいい。その大きさのまま出て行ったらええから」
「はい」
コンコンとドアが鳴って、シンの顔がのぞいた。
「そろそろ行こうか。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
亮と若葉の声が揃い、同時に立ち上がった。
「やったろ」
亮が右手を差し出した。
「いっちょ、やったりましょう」
若葉も右手を出し、一度ぎゅっと握手をした。少しひんやりとした手の平の感触が残った。

ドアを開く。フライヤーコーナーには、空色のフライヤーが何枚も並ぶのが見える。カウンター席の一番端にある、彩の背中。シンのうなずく顔。いつもより薄暗い照明。拍手と呼ぶ声がする。店いっぱいの人の中をコマ送りのように一歩一歩進む。明るく浮かんだステージに、亮そして若葉が上がる。まぶしくて目を閉じた。
「りょうくん」
客席の真ん中から、小さな男の子の声が響いた。亮は笑って手を上げて応えた。
若葉がギターを持ち、亮がマイクに手をかける。目を合わせ、前を向き、亮が深く息を吸う。
亮の声だけがゆっくりと響く。


 『around』

 いつもの道が知らない道
 張り替えられたアスファルト
 1つのライン境に違う色
 白けた黒に黒い黒

 雨の後みたいに輝く
 さながらStage
 ひそやかなStep
 季節を知らせる花は足下に眠る

 変わらない景色
 いつの間にか少しずつ
 変わる景色 いつしか忘れてしまう

 いつもの道が花けむる時
 桜のアーチ 目を細めた
 あれが最後になるならば
 もっと愛せばよかったなんて

 切られた幹に見つける
 繰り返す Round
 時知らす Ring
 いつもそこにあった
 僕が知らなかっただけ

 変わらない景色
 気づかないうちに
 変わる景色 いつしか励まされてる

 月日たてば 新しい夜
 人知れぬ Life
 声上げて Laugh
 花開かせて 僕はこの歌を歌う

 変わる景色 和む空気作る
 変わる僕ら そのままではいられない


一曲目は若葉のアイデアで決まった『around』。亮のいるRound Scapeに若葉が加わり、二人の音楽の始まりを告げる曲。
亮の声を若葉のギターが追いかける。一つ一つ音を重ねていく。引いて引かれて、押して押されて、スタジオで向き合っている時と同じように、互いに導きあって曲が進んでいく。桜の花が舞うように、光の粒がきらめくように、歌声とギターだけのシンプルが持つ豊かさが満たしていく。
「変わる僕ら そのままではいられない」
 空気を多めに含んだ亮の声が止む。
わっと拍手と歓声が、二人を包む。
その声で、スタジオの感覚から今いる場所に戻ってくる。観客の反応を気にするのも忘れるくらい、いつも通りだ。二人はそう思い、顔を見合わせて笑った。
「こんばんは。はじめまして。そしてお久しぶりです。Round Scapeです。花見日和の中、来ていただいてありがとうございます。今日はのんびり楽しんでいってください」
亮はそう言って、観客の笑顔を見渡した。初めに声をかけてくれた男の子も、大きく手を叩いている。
「今日のライブのためにマスターがドリンクも用意してくれたので、そちらも楽しんでください」
亮がカウンターの方へ手を向けると、シンは手を振って応えた。
若葉はステージ脇のテーブルから、二種類のドリンクを両手に持ち、客席の方に向けた。
「さくらクリームコーヒーと、空色ソーダです。どちらもおいしくてかわいいのでぜひ」
右手のカップのコーヒーには、ほんのり桜風味のクリームが乗り、桜の形のチョコレートで飾られている。左手のカップには美しいグラデーションの空色が広がっている。その中に、レモンスライスが浮かび、細かなゼリーがキラキラと揺れている。
シンが作ったドリンクのように、春のふわふわとした空気をまとってライブは進んでいく。ドリンク片手に揺れる人。子どもを膝にのせて、一緒にリズムをとる人。目をつぶって聞いている人。
若葉は、時折カウンターの方を気にしてみたが、彩の様子は見えなかった。
亮はそれぞれに楽しむ顔が目に入る度に、満たされていくのを感じた。
「ありがとうございます。今日は、昔の曲のアレンジを変えて演ってます。次の曲も色々考えまして。僕は川沿いの町で育ちました。だから、この町に初めて来た時、川のある風景にすごくほっとしたのを覚えています」
亮は懐かしく浮かぶ景色に、ゆっくりと瞬きをした。
その隣で、若葉は、一か月前に初めてこの町を訪れた自分と、昔の亮を重ねて思い描いた。
「縁あって、今、ここで暮らさせてもらって、みなさんに本当によくしてもらって。ずっとここで育ったような気になるくらいです。次は、『川と歩く』という曲を歌いたいと思います。川のある景色を歌った曲なんで、今日は、この町の皆さんと一緒に音楽を作ってみたいと思ってます。いいですか?」
「いいよ」という声と拍手が重なって届く。観客の背筋がピンと伸びて、自分たちの出番だという雰囲気になった。
「ありがとう。そしたら、ステージ前の方、半分のみなさんは、手拍子してください」
ぱちぱちと、亮に合わせて手を叩く音が弾ける。
「いいですね。次、テーブルのある後ろ半分のみなさんは、指パッチンしてみてください」
亮の指はパチンパチンといい音が鳴り、若葉の指はうまく鳴らずにカスカスしている。
「うまく鳴らなくても大丈夫です」
苦笑いしながら若葉がそう呼びかけると、笑い声とパチンパチンとカスカスという音が答えた。
「いいねいいね。で、カウンター周りのみなさんとマスターはこんな感じ。右手はグー、左手はパー。それで手拍子してみて。そんな力いっぱいしなくていいから」
手拍子よりもくぐもった大人っぽい音が響いた。
「かっこいい。一回練習してみよう。チーム拍手。ぱんぱんぱんぱん。そのまま続けて、チーム指パッチン。パチンパチンパチンパチン。最後、チームグーパンチ。グーグーグーグー」
にぎやかな音が、店中で躍っている。その顔はみな楽しくてたまらないといった風だ。
「OK。入るタイミングは僕が合図するんで、まあ、雰囲気で合わせてください。ゆるくて全然大丈夫です。よろしくです。では本番いきます」
若葉のギターから一滴の音の雫がこぼれる。


 『川と歩く』

 ララ ラララ ララ
 川沿いを歩く
 自転車に乗った君
 通り過ぎて草が鳴る

 あさいろの川が 背中を押す
 行っておいで 行っておいで

 流れるも流されるもどっちでもいいや
 自分で決めたと思いがち
 いつもそこに川があればいいや

 ララ ラララ ララ
 指ですく髪
 薄いカーテン揺らす風
 そこにいつだって川をおもう

 ゆういろの川が 背中さする
 よくやったよ よくやったよ

 小さな橋から落とした涙
 あれは何だったっけな
 ちっとも思い出せないけど

 やみいろの川が 光うつす
 何も言わない 何も言わない

 小さな橋から落とした涙
 あれは何だったっけな
 ちっとも忘れられないけど

 いつもそこに川があればいいや
 いつも静かに川があればいいな


観客が響かせる音色は、重なったり、入れ替わったり、混ざり合ったりしながら、Round Scapeの音の中を、温もりとなって流れていく。水が落ちて、川が流れ、その側を歩く、一人一人違った景色が広がっていく。多幸感に満ちた、この日この時だけの音楽となった。
亮が手の平で音を掴んだ。
「最高! ありがとう。みなさんのおかげで特別な音楽ができました。最高。忘れません」
喜びにあふれた歓声は、その場にいる一人一人に向けられ、全員を包み込んだ。
すべての曲の音が消え、空気には熱が残った。亮と若葉は目を合わせてうなずく。
「今日はありがとうございました。また戻って来られてよかった、ほんまに。ありがとう」
亮がそう言うと、二人は観客に向かって深々と礼をした。
この時間をどんな言葉にできるだろう。まだ言葉にならない気持ちを、今日一番の拍手に込めてステージの二人に贈った。
亮は右手を挙げ、若葉は手を振りながら、ステージを下りる。キラキラした空気に包まれながら見送られる。若葉は、最後に振り返ってその景色をもう一度目に焼き付けた。
終わらなければいいのに。

控室の扉を閉めると、また二人だけになった。叫びたい衝動を、ふうともらす息に変えて抑える。
亮の右の手の平を若葉の前に掲げる。若葉は腕を伸ばし、手の平を合わせる。パチンと軽やかな音が鳴った。
「最高やったな」
「最高。楽しかった」
見合わせた顔には、全面に笑みが広がっていた。
「亮さん、天才でした。すごすぎてずっと泣きたかったです」
「なんやそれ」
「やっぱり亮さんの声がRoundです。亮さんの声に引っぱってもらいました」
「引っぱったんは、そっちやけどな」
満たされているのに、少しさみしい気持ちはどこから来るのだろう。
亮は若葉にしか聞こえないほんの小さな声に思いを込めた。
「若葉、連れてきてくれてありがとう。ほんまにありがとう」
ライブの熱気が冷めやらぬ中、「うたたね」で打ち上げが行われた。若葉は彩のことが気になっていたが、亮と少し喋ってすぐに帰ったようだった。
シンがとにかく嬉しそうで、一番に酔っぱらって、人々にライブの感想を聞いては、共感しながら手を叩いて笑っていた。

「おやすみ」
亮と若葉はそう言いながら、店の戸を開けると、二人の声が重なった。
「満月や」
「満月」
空に浮かぶ丸い月が飛び込んできた。
川の向こうの桜は月明りに照らされて、ふわりふわり揺れている。
「きれい」
ゆるやかな坂道に並ぶ二人からは何の言葉も出てこない。
静かに流れる川の音が聞こえてくるだけ。
こんなに豊かな夜はそうそうない。
 亮の家に着くと、亮は玄関先に寝ころんだ。
「酔っぱらったー」
「亮さん、お茶しか飲んでないですよ」
「ウーロン茶で酔っぱらったー」
亮が一通りおどけた声を出した後、再び夜の静けさが戻る。
水の入ったグラスを手にリビングの扉を開くと、藍色のソファの上でギターを抱える若葉が小さく見えた。弦を押さえる音だけがキュッキュッと響いていた。
亮は、若葉の湿った髪から目をそらしながら、グラスをテーブルに置き、椅子に座った。 
「反省会しようと思っとったけど。言葉にすんのが惜しい」
「はい。もったいない感じです」
若葉がギターから顔をあげると、亮の髪から肩に水滴が落ちるのが見えた。
「何やろうな」
全てに満足しているわけではない。確かに上手くいかない部分もあった。でも、片方が走れば片方が抑え、片方が伸びれば片方が縮める、そういうバランスの取り方ができたことも含めてよかったのだ。このバランスで、もっといい音楽をしたい。ここから、始まり続ける。亮の中に次々と浮かぶ言葉の中で、本当に言いたいことは一つなんじゃないかと思う。
亮はグラスの水を一気に流し込む。
「なぁ、若葉」
亮の低い声。息が止まるのが分かった。
「俺がこんなこと言ったらあかんのは分かっとるんやけど」
自分がどんな顔してるかもわからない。
「これからもずっと一緒に音楽していきたい……。俺とずっと一緒におってほしい」
亮は、これまで「ずっと」という言葉の持つ危うさを避けてきた。けれど、今、気付けばその言葉を選んでいた。
若葉はギターをそっとソファに寝かせる。亮の側に座り直し、亮の顔を見つめた。そのほほえみは、全てを包みこむようで、亮は子どもに戻ったような気がした。
「分かってます、分かってます。初めから私はそのつもりでしたよ。『うたたね』のフライヤーのところで会った時から」
「せやな」
「あの時から分かってたことだから、私は抱きついたり、泣いたりしないよ」
「せやな」
二人でささやき笑う。
「それでも。分かってたことでも、とても嬉しい。ありがとう、亮さん。これからもよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
とろけるような笑顔で、小さくお辞儀をして、握手をした。小さく思えた手はずっとたくましく力強く、大きな手はずっと優しく柔らかく、その手のあたたかさは、初めて会った時よりもずっと安心できるものになっていることに気付く。
カーテンの向こうで、丸い月がゆっくりゆっくりと動いていった。



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