見出し画像

-小説- ミモザからはじまる 【2.菜の花】

坂道を上りながら、若葉は昨日の自分の言葉を思い出し、照れくささが湧き上がってきた。「うたたね」の前で一瞬ためらっていたが、ほのかなミモザの香りに深呼吸したような気持ちになり、思い切って戸を開いた。
「こんにちは」
「いらっしゃい。お待ちかねだよ」
「おう」
「すみません。お待たせしました」
「ほな、行こうか。何も頼まんとごめん」
「いえいえ。いってらっしゃい」
シンは手を振って送り出した。

店を出ると、ミモザの枝に若葉のギターケースが触れて、ミモザも手を振った。
「近くにスタジオとかあるんですか?」
「ああ、まあ。すぐ近くやから」
川辺の緑の中に、菜の花の黄色が点々とのぞいている。若葉は菜の花をただ目で追いかけながら歩いた。
「ここ」
亮が指さした先に年季の入った民家が見えてきた。とてもスタジオには見えない普通の家だ。家の周りの木々は、すっきりときれいに手入れされている。大切に住まわれてきたことが分かる。
「一応、俺ん家」
「亮さん家ですか」
ガラガラと音を立てて、ガラスの引き戸を開ける。懐かしい感じのする玄関も無駄な物がなくすっきりとしていた。
「どうぞ」
「おじゃまします」
廊下を進み、開いた扉から部屋をのぞくと若葉は声を上げた。
「すごい! 本当にスタジオだ。普通のおうちみたいなのに」
Martin、Gibson、Fender、憧れのギターが並ぶ。カスタネットやトライアングルといった親しみのある楽器、スネアドラム、電子ピアノ。これはカホンで、あれは三線だろうか。
「一応は防音もしてあるけどな。一番近い裏のじいちゃん家も距離あるから、それが一番の防音やな」
「じいちゃん」
「自分のじいちゃんちゃうけどな。かわいがってもらっとる」
ついつい部屋を見回してしまう。いるだけでわくわくしてくる空間だ。
「おうちにスタジオって、やっぱりすごい」
「音出してみるか。何か弾いてみて」
「はい」
若葉はケースからギターをそっと取り出す。
「お、Ovationなんや。エレアコ。白って珍しいな」
「そうなんです。お店で見つけた瞬間、これだ! って、即決でした。バイト頑張りました」
白いボディに開いている大小のサウンドホールが、ドットのようで、「かわいい」と一目惚れしたギターだ。
若葉は深呼吸をするように、一度右の手の平をぐっと閉じて開いた。
弦が鳴る。一弦一弦奏でるアルペジオで『around』が穏やかに立ち上がり、ダンスのステップを思わせるカッティングが曲の輪郭を際立たせる。繰り返しながら幅を広げていくメロディを躍らせていく。
音が止む。時が止まったかのように、何の音もしない。きっとだめだったんだ。恐る恐るギターから顔を上げて、亮の顔を見る。
「何、何、どうしたんや」
「下手くそでしたよね。ごめんなさい」
「何がや。ちょっと油断しとった。完璧やないか。確かに上手くはないかもしれん。でも、ギターが歌っとった。躍っとった。あのライブの映像だけで、ここまで聞いてくれるとは。まだ出したい音を出し切れてないんかもしれんけど、音が見えとるからいける。何や何や。どこが普通なんや」
「それは大丈夫だったってことでしょうか?」
「そう言うとるやろ」
「よかった」
若葉は力が抜けた声を出した。
「そんなら合わせてみようか」
亮もアコースティックギターを手に取り、曲を始めた。
画面の中にあった亮の歌声が、すぐそこにあり、ギターの音も合わさって、増幅して響き、若葉は「すごい」と手を止めて聞き入ってしまいそうになる。もっと弾きたいのに弾けない焦りで手がもつれる。
「焦るな。俺は逃げていかん。ちゃんと聞け」
「すみません。生意気ながら負けたくないと思ってしまいました」
「はは。その意気や。落ち着いて詰めていこう」
音を足したり引いたりしながら、歌とギターを組み合わせていく。音の会話は饒舌で、部屋に音が満ちていく。
一通り『around』の音が固まったところで、亮が声をはさんだ。
「もうこんな時間か。今日はこのくらいにしとくか」
来た時は明るかった部屋が、薄暗くなっていて、ランプの光が淡く揺らめいている。
「私、知らなかったです。こんなに楽しいって」
「俺も忘れとった。音を楽しむと書いて音楽な。久しぶりや」
「いつまでもどこまでも続いていきそう」
何かが始まっていく喜びの中で、時が止まってほしいような、この時がいつまでも続いてほしいような、それでも始まったら終わることを知っているから、祈るように言葉が少なくなる。
春風が窓ガラスを叩く。急かさないで。あと少し、この時にじっと浸かっていたい。

夜の「うたたね」は、昼とは違う店のようだった。ゆったりとしたテンポのジャズが小さめのボリュームで流れている。座敷席には、二人きりのひそやかな会話と共にワインがあった。しっとりと大人の空気が漂っている。
静かに店にやってきた亮と若葉はカウンター席に並んで座り、黙りこくっている。
「どうだった、音合わせ」
シンが恐る恐るといった様子で切り出した。
「ん。ちょっとね」
亮は眉間にシワを寄せ、若葉はうつむいた。
「何、何? もしかして合わなかった?」
心配そうなシンの表情を見て、二人はちらと目を合わせる。
「期待しといてや」
「です」
そう言って、2人は笑い声を上げた。シンは一瞬だけ間の抜けた表情になった。
「ちょっと。やってくれたな、亮。何か深刻そうだから、だめだったかと思ったよ」
「亮さんが、シンさんは絶対気にしてるから、黙っとこうって言うから」
「人が悪いよ。若葉ちゃんまで亮と一緒になって。悔しい」
そう言いながら、シンも一緒になって笑った。
「ごめんなさい」
若葉は、昨日会ったばかりなのに、こんな風に笑えるなんて、いつもの自分じゃないみたいだと感じていた。この居心地のよさは、二人が大人だからなのか、「うたたね」の持つ場の力からくるのか。そんなことを考えながら、亮とシンの目をただまっすぐに見て笑っていられた。

スピードを上げた車の走ってくる音。窓ガラスが小さく鳴る。店の裏の駐車場に車が止まり、扉がバタンと閉まる。ヒールの音が近づいてくる。若葉は、逃げた方がいい、そんな予感がした。
ガラガラガラ。カツカツカツカツカツ。
逃げそびれた。
「いた。亮、どういうこと。何で電話出ないの?」
きれいな人、瞬間、若葉はそう思った。仕事帰りだろうか、きちんとして見えるけれど程よくリラックス感のある、ピンクベージュのスーツ。足首に細いストラップの付いたパンプスを履きこなしている。
「彩。落ち着いて、お客さんもいるからね」
シンがなだめるが、それでも彩の声は、亮に向けられる。
「何ですぐ話してくれなかったの。シンが教えてくれなかったら、私はいつまでも知らないままだったわけ? 何で今まで私が言っても動かなかったのに」
収まらない様子で次々と言葉があふれてくる。ふと若葉の姿が目に留まったが、すぐに亮に視線を戻す。
「何? この子なの? 何で? 若いから?」
若葉は自分のせいだと察して、声を出した。
「あの。私がRound Scapeに入れてくださいって、無理にお願いしたんです」
「あなたには聞いていません」
彩はぴしゃりと切って、もう若葉を見ることはなかった。
亮は「ああ」とか「うう」とか言うばかりで、彩の言葉は止まらない。
「まあ、彩。ここ座って」
果物のようなさわやかで甘い香りが鼻をかすめたかと思えば、シンが紅茶のカップをカウンターに差し出していた。そして、若葉に声をかけた。
「もう暗いから行こうか。送っていくよ」
「ごめん。シン、頼むわ」
亮が小さく答えた。
「ちょっとだけ出てきますね。すみません」
シンはエプロンを外しながら、座敷席の客に声をかけた。若葉は何か言うべきか迷ったが、黙ったまま急いで荷物を持ってシンの後に続いた。

店の外に出ると、すっかり暗くなっていた。シンも若葉も、ふうと息が出た。
「本当にごめんね。びっくりしたよね」
「いえ、そんな」
若葉は断ったが、ギターケースはシンが持って、並んで歩き始めた。
「僕から話したのがまずかった。Roundのこと。嬉しすぎてね、つい。ちょっとだけ迷ったんだけど、やっぱり亮から話した方がよかったな。付き合い長いのにまだまだ分かってないな」
 風が強く吹いて、木々の揺れる音がした。
「すごくきれいな方ですね」
「彩は初期からのRoundのファンでね。ファンって言っても、距離感近いからライブの手伝いとかもしてたみたい。彩はデザインの仕事を目指してたから、Roundのデザイン面のこともしてたんだ。独立した今でも気にかけてる」
「そうだったんですね。確かにすごくかっこいいフライヤーでした」
若葉は「うたたね」で見たフライヤーを思い返していた。ただ白いんじゃなくて、白いことに意味が込められている、そんな気がした。
「大事なバンドに、知らない人が急に関わってきたら嫌ですよね」
「嫌っていうか、思い入れが強すぎるんだよね。今日、来てみたら、若葉ちゃんがいて、若くてかわいくてキラキラしてるでしょ。嬉しいような悲しいような。複雑なんだろうね。亮は亮で、彩には恩があるから。だからこそ何も言えなくなる。冷静になればわかることも、ちゃんと判断できないというか、したくないというか。大人になっても大人ぶれない時ってあるんだよね。分かってあげて」
「シンさんは、彩さんのことも、亮さんのことも、ちゃんと分ってあげられてすごいですね。私はそんなに人のこと、分からない」
まっすぐ前を向いていたシンの視線がふいに地面に落ちた。
「そんなことないよ。分かってるフリしてるだけなのかもしれない。人にはあれこれ言う割に、自分のことは今でも分かってないなと思うよ」
「シンさんも、そんなこと思ったりするんですね。達観してるように見えてました」
小さくシンが笑った。
「その境地には、永遠に辿り着けそうにないよ。若い子にというか、若葉ちゃんにそう見えてたなら、大人ぶってる甲斐があったな」
「お話聞かせてくださって、ありがとうございました」
若葉はシンからギターケースを受け取り、頭を下げた。
「また、お店で待ってるね。ライブ楽しみにしてるから。その頃には桜が咲いてるね」
シンは、どこかで眠る桜の木を思って、川の音のする方を見やった。
「はい。がんばります。私にできることを全力で」
「うん。じゃ、気を付けてね」
「おやすみなさい」
一人になった若葉は、背中を押す風に逆らって振り返ると、全速力で走って戻るシンの背中が見えた。
自分だけではない、人々の感情があふれる。
若葉は『around』を口ずさむ。その小さな声は、風に乗って遠くまで飛んでいった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?