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Z世代の『リコリス・リコイル』、年配の斎藤元彦現象、僕のライフワーク

時代遅れになりつつある世代がすがった斎藤元彦

 「大好き」と公言していたラランドのサーヤが見限り、ついにダヴィンチ恐山すら離れた終りの地、X。前々からはここはネトウヨの本拠であり、チー牛の砦であり、チー牛専門のデマゴーグがのさばっていた土地ではあった。しかしこと最近においては、良心あるユーザーが蒸発し、エコーチェンバーが煮詰まった極致に突入しつつある。
 Xは前からインフルエンサーが依存性の高い信者を囲い、自分が批判された瞬間にファンネルをけしかけるような文化があった。しかしかつては人文学に一定の功績があったり、ライフハックが有用だったり、人当たりの良い人物でなければ、インフルエンサーとして信者を獲得できなかった。
 しかし今は違う。今はその信者が勝手にインフルエンサーに都合のいい真偽不明な情報をWeb上でかき集めるようになり、インフルエンサーの犬笛なしに閉鎖的なコミュニティを形成するようになった。なる、暇空茜、石丸伸二、斎藤元彦。
 斎藤元彦こそまさに好例であろう。石丸伸二ですら、「自分は老害と戦っていますよ」というイメージをつけるために、市議会議員に攻撃的な言動を見せつける必要があった。しかし斎藤元彦はそのポーズすらつけずに、勝手な応援団が金魚の糞の如く彼の周囲を徘徊するようになったのである。

 彼らの主張はこうである。「斎藤元彦さんはメディアにいじめられている!」「斎藤元彦さんは利権と戦っているんだ!」「斎藤元彦さんをいじめているのは既得権益を守りたいからだ!」
 さて、彼らのいう利権とは何だろうか。これを考える際に、一旦兵庫県政というコンテキストは置いておいて、彼らが何を敵視しているかをより普遍的に把握したいと思う。なぜなら以前にも暇空茜という陰謀論者が「公金をチューチューするスキームを共有する、ナニカグループが存在する」と同様の詭弁を弄したからだ。似たようなロジックを練る人間が過去に見られ、現在にもいるのなら、これから先にも出てくると考えるのが賢明であろう。

 彼らの糾弾する利権とは、恐らくマイノリティへの人権政策であろう。彼らの使う具体的な語彙は、例えば「同和利権」とか「アイヌ利権」などだと思われる。
 言っておくが同和政策を行政は終了しており、今更殊更に問題視すべきないようではない。詳しくは差別する人の研究に述べられている。
 したがって、この先同性婚の権利が認められれば、アファーマティブアクションが徐々に廃止されていった後でも「LGBT利権だ!」と叫ばれたりするだろう。彼らに話を聞いていくと、そもそも人権に興味はなく、それどころか国威発揚などを小躍りして賛美し、市民権や人権そのものを敵視していることが窺えることがほとんどだ。彼らにとってアファーマティブアクションの度合いの適切さは関係がない。自分たちよりも下の人間なのに、行政に尊重されている様子が気に食わないのだ。

 彼らはなぜそこまで斎藤元彦に肩入れする理由は何だろうか。それは恐らく、ハラスメント批判への反発だと考えられる。
 斎藤元彦に肩入れする人間の多くが昭和に生まれ昭和で働いてきた。斎藤元彦のような権威を振りかざす姿を批判されると、自分の過去の働き方も批判されていると感じるのだろう。俺は部下を怒鳴りつけたり暴言で詰めたりしてでも営業成績を伸ばしてきた。それを非倫理的だなんて言われる筋合いはない!
 しかし彼らは貧しいマイノリティの持つ”利権”を叩くわりに、例えば創業家利権とか、大株主利権とか、立ち上げ役員利権などを叩いたりしない。自分の労働を搾取する資本家を叩いたりしない。
 彼らのロジックは現代的レイシズムであり、欺瞞である。
 すなわち壮年~老年の企業戦士だった彼らから、斎藤元彦というエスタブリッシュメントの復権を支えることで、自分も古き良き昭和の縦社会に快適な居場所を作りたいという願望が現れているのだと想像している。

Z世代の石丸現象と『終りに見た町』

 さて老害ではこのような力学が働いていると分析した。ではZ世代ではどうだろうか。
 Z世代に「社会党」と言ってもピンとこないだろう。小さい頃の首相は小泉純一郎であり、将来は年金をもらえないと言われ育ってきた。ネオリベ以外の政治家を知らないし、政治で何かが変わったことを目にしたこともない、イデオロギーなき世代である。
 そうなれば彼らの取れる戦略は幾つもない。つまり競争社会で成功していくことである。社会民主的な野党で政治運動をしても福祉社会を作れる見込みは少ない。ならばベンチャーで好成績をおさめ、早めにFireした方が老後のお金を工面する道としてわかりやすい。
 この需要に出てきたのが石丸伸二である。政治を変えるのではなく、自分を変え資本主義社会で成功していくにはどうしたらよいかを語る。これがアメリカンドリームならぬ、イシマルンドリームであるというのは語られてきたところだ。

 私は伊藤教授の分析に一つ付言したいと思う。
 Z世代では政治や資本家といったエスタブリッシュメントに抵抗し改善するよりも、そこで成功をおさめる方が勝ち筋だと述べた。だから政治活動はダサいし、社会福祉の充実よりも増税の方が目障りなのである。
 このZ世代の世界観は今年9月に放送されたテレビ朝日系の特別ドラマ『終りに見た町』でもよく投影されていたし、アニメ『リコリス・リコイル』にも指摘されている考え方だ。

 Z世代が慣れ親しんでいる都市の店やサービスは、客の需要をマーケティングして拾い、それを叶え発売する。図示するとこんな感じだ。

消費者の要望→店

 対して政治は、まず哲学者がイデオロギーを発案し、それを支持する政治家が地域に政党組織を立てる。そして民衆がそれを支持するのである。たとえばサンデルが「最も不遇な人を最大限救済するのでなければ、発展は許されるべきでない」とする正義論を打ち立て、それを酌んだ枝野幸男が立憲民主党を立てたのである。図示すると以下の通りだ。

イデオローグの発案→政治家の組織化→大衆の支持

 つまり、政治の世界はZ世代の慣れ親しんだ消費の構図と全く異なる、上からの押し付けに見えるのだ。このような状況に直面した時、Z世代がしたことは、「じゃあ僕たちの望む商品を並べてくれるのはどの政治家なんだろう」と探すことだった。そこに手を挙げたのが石丸伸二だったのである。

Z世代の私が、それでも政治に向き合う理由

 ネタバラシをしてしまうと、私はアナルコサンディカリストである。ここでは記事の旨に逸してしまうので詳しくは延べないが、私が社会主義を志す理由は以下のとおりである。

量子コンピュータとAIのシンギュラリティ 電気が発見されたとき、「今までの労働は電気に置き換えられるので、人々は働かなくてもよくなるだろう」と言われていたことをご存じだろうか。コンピュータが発明されたときも、「ホワイトカラーもコンピューターが代わりに労働してくれるので働かなくてよくなるだろう」と言われていた。働かなくてよくなっているだろうか?むしろ、電気とコンピュータで余剰になった時間と労働者を営業に回し、より高い利潤を求めるようになったではないか。これから先、量子コンピュータとAIによって再度産業革命が起こるであろう。このシンギュラリティの前に資本主義から脱さなければ、また余剰になった人間と時間はさらなる利潤のために回され、決して楽にならない。余剰になった人間と時間は、余暇にこそ回るべきなのだ。

労働負担の不均衡 この資本主義下、エッセンシャルジョブほど儲からず、ブルシットジョブほど儲かるようになっている。この不均衡を正すには、金を持つに値しない金持ちから富を奪うとともに、収益性の高い事業と低い事業を統合しなければならない。それには社会主義が不可欠だ。

労働者の労働者による労働者のための経済こそが真の自由経済 我々は多々血を流しながら、政治において民主主義に到達した。では経済はどうか。いまだに支配者がおり、自分の職場を自分で決められない、経済的専制の只中にいる。アナキズムの本を読んでもらえばわかるが、アナキズムはほかのどの思想よりも自由なのだ。私は信じてやまない。政治において一票一票は平等である。ならば経済においても労働者一人の意思決定は平等であるべきだ。政治において、我々は我々の社会を民主的に自治している。ならば、経済においても労働者によって自治的に決定すべきだ。

私のライフワークを考えた

 前に挙げた3つのアジェンダ、特に前者2つの問題については、決して石丸的なアプローチでは解決しない。アナキズムでなくとも、政治的な解決策が必要だ。
 そしてこと昭和への懐古を捨てられない斎藤元彦信者の性格的な問題は、プライベートで表出するだろう。例えば家庭内でのモラハラや場合によってはDVにすら発展しかねない。
 老害は権力者として、Z世代は消費者として、それぞれルンペンプロレタリアート的なアイデンティティに終始する現代に、私は何をライフワークとすべきなのかを考えたのだ。

 私の結論は、一人でも多くのアイデンティティを、日本人ではなく、プロレタリア階級であると目覚めさせることだった。
 例えば五島の海士とか、只見のマタギとか、うちなーんちゅとか、そういうアイデンティティは実在すると私も捉えている。しかしこと「日本人」なるものは、想像の共同体に過ぎない。
 プロレタリア階級を自認さえすれば、そのあとどんな選択肢をとってもいい。我々に合流してサンディカリズムに奔走してもいい。ルンペンプロレタリアートとして居直ってもいい。投票行動を変えるだけでもいい。組合員とより仲良くするだけでもいい。
 しかし、この自覚によって、普段の暮らし方が変わるはずだ。そして金持ちへの崇拝を止め、むしろ敵意の対象とすることができれば、大いなる進歩であろう。
 我々は村上世彰と同じ人間なのだろうか?竹中平蔵と同じ人間なのだろうか?違う。我々は労働者階級であり、自分のものを自分たちで作る集団である。搾取を生業として、奪い取ることで生きながらえる寄生虫とは違う。駆除されいつ死んでもいい害虫とは違って、我々は知性と良識を備えた唯一者の共同体なのである。


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