そうだ、歯医者へ行こう
私は大人になるまでほとんど歯医者にかかることがなかった。歯磨きも食事の度にするほどマメでもなかったのだが無事であった。しかし大人になり、酒に飲まれて寝落ちして、を繰り返し、どこもかしこも悪くなってしまった。文豪らしくて良いかと思っていたが、痛み出しては耐え抜く肝もない。地元に名医がいて、通うならそこ一択であったが、時はコロナ。いま住む街で探すことにした。
幸い通っても良い場所が一度で見つかった。設備も最新鋭、初日から口内を3Dで完全掌握されてしまった。案の定上下左右に虫歯が見つかり、かくして私の歯医者通いが始まった。
この歯医者では、診療台の正面にモニターがあり、常に映画が流されている。ジブリや若手俳優が出ているもの、ディズニー系、大体そのあたりである。待ち時間を退屈させぬ工夫として、その発想自体は大変よろしいが、時折治療を受けている幼児が絶叫、映画の中ではモンスターが絶叫、という瞬間があって落ち着かなくなる。また歯の型取りで唾液が溢れるのを必死に堪えているときに(私は唾液が異常に多い)、Mr.ビーンを流すというのはやめてもらいたかった。大体Mr.ビーンなど流されては治療前に見ていたシーンが時間差でどツボに入り、間違いが許されない繊細な治療中に吹き出すこともなきにしもあらずではないか。どうか映画の選択にも慎重になって欲しい。
他にも「これ、ル・ル・マンドって映画でしたっけ?」と歯科助手にボケてみたい衝動に駆られたり、キスシーンが出てくれば、歯医者や歯科助手はこういったシチュエーションになったら、散々見ている虫歯をイメージしてしまって、集中出来なかったりしないのかしらんなどと、余計なことをあれこれ考えてしまう。そんなわけで私は画面を出来るだけ見ないよう、右斜め下あたりをジッと睨み、次の工程が始まるのを待っている。決してアブナイ人間ではない。
私の担当は女医、歯科助手も私より若い女性たちばかりである。細い指を口に突っ込まれ、ゼロ距離であれこれされるというのは、非リア街道爆進中の私生活との乖離が甚だしい。女性の手にこだわったジョジョ4部のボス、吉良吉影の気持ちもわかるような気がしてくる。当然それにならって、口の中に入れられた指を舐め回したり吸ったりしてみては、確実に虫歯と共に監獄送りだが、私は何に金を払っているのか、次第にわからなくなってくる。もちろん歯科治療に対してでしかないのはわかっているが、この非現実性ゆえ、それがビジネスとして成立しているサービスを受けている錯覚がしてくるのである。断っておくが私はその手のものを利用したことはない。
お前はそんな風に浮かれて治療を受けているのか、と言われればもちろんそんなことはない。治療は概ね痛みなく進むが、歯の神経を取り除いた後でも痛みが出ることがあるので、いつ痛みが襲ってくるかわからず、診療台に座った瞬間からそこを発つまで、一瞬足りとも気が抜けないのである。先生の説明では歯の根にまっすぐ通っている神経とは別に、横に伸びている細かい神経があり、それが多いと痛みが出るとのことだった。植物の主根と側根をイメージ頂ければ話が早い。主根は取り除けても側根は難しいらしい。側根は自然と痛みがなくなっていくらしいが、当座痛みが出るなら仕方ない、追加で麻酔を打つことになる。だがそれは“麻酔のための麻酔”なしで「ほらよ!」と打たれてしまうので、大の大人が「あがが、あが・・・」などと言いながら麻酔を注入されている。こうなるハメになった日は憔悴しきり、泣きながらスーパーで買って来た無凍結釜揚げしらすを1人で一気食いする等で慰めを得るしかない。
地球上に歯医者ほど行くのに腰が重い場所もないだろう。しかし私の治療は悪習慣と放置によって長期化してしまっているので、ここまで読んで下さった皆さんは早期発見・軽い治療で済むように
「そうだ、歯医者へ行こう」
と思い立ってみてはいかが?
追伸、歯医者に通い出してから丸7ヶ月が経ったが、私の治療は終わらない。