マルクスとエンゲルスによる唯物史観批判、「下部構造が上部構造を規定する」という誤解

マルクスとエンゲルスによる唯物史観批判

最近、マルクスとエンゲルスが二人で書いた『ドイツ・イデオロギー』という本を読み終わりました。その内容は、一言でいえば唯物史観についての話です。

唯物史観。マルクス思想の中でも有名な理論だけあって、GoogleやTwitterで検索してみると、マルクス思想としての唯物史観について話している人がたくさんいます。

しかしその中身を見てみると、どうもマルクスやエンゲルスの著作に書かれている唯物史観とは違っているように思えました。今回はあくまでネット検索した狭い範囲の話ですが、史学を専門としている人でもマルクス史観をよく分かってない人が多いように見受けられます。

そこで今回は、唯物史観のよくある4つの誤解を、マルクスやエンゲルスの著作を引用しつつ解いていってみたいと思います。マルクス史観なんて興味ねーよって人も多いでしょうけど、まぁ見てってください。

この記事では唯物史観の誤解に対する解説が中心で、唯物史観そのものについては簡単な説明だけにとどめます。本当は「そもそも唯物史観ってなに?」って人のために1から説明しようかとも思いましたけど、ググったらいくらでも分かりやすい解説サイトが出てきたので、まったくの初学者はそちらを読んでからどうぞ。

1、「下部構造が上部構造を規定する」という誤解

唯物史観の誤解で最も多いのが、「唯物史観は、経済によって社会の全てが決まる経済決定論だ」というものです。

さて、のっけから難しい言葉が出てきたので用語を解説します。

下部構造とは、社会の物質的要素。専門用語を用いれば生産諸関係のことですが、とりあえず「経済に関する色々」と考えてください。ここでいう経済とは、お金に関わる貨幣経済だけでなく、食べ物や服などの物質的生産物。そして生産者同士のそれらの交換(つまり売買や交易)という経済活動全般のことを指しています。

上部構造とは、政治システム、社会の権力構造、住人の共通観念・道徳・宗教など、社会の非物質的要素のことを指します。

下部構造:経済
上部構造:政治、宗教、道徳、法律などなど

マルクスは歴史を考えるにあたって、古代でも現代でも西でも東でも「人間は食べなければ必ず飢えて死ぬ」という人類の普遍的法則から考察を始めました。そこからマルクスは「人間がどうやって食を得ているか」という人の生産活動に着目し、「その生産活動の土台の上に政治や法律、あるいは宗教や道徳などの非物質的な概念が生まれる」と考えたわけです。

そのような社会構造を、マルクスは一戸の建物に例えました。つまり社会には、まず経済という下部構造があり、その上に政治や宗教という上部構造が建てられる。下があっての上であり、その逆ではない。

つまり「社会の一番の基礎は経済である」と見なすのがマルクスの立場です。そうして生まれたのが「下部構造が上部構造を規定する[1]」という有名な唯物史観の定式です。規定するってのは決定するって意味ですね。下部構造の経済に変化が起きれば上部構造の国や政治が変わり、人間の歴史が動いていく。それこそが唯物史観の考え方です。

この「下部構造が上部構造を規定する」という命題は、専門言葉の意味さえ知っていれば非常に分かりやすい唯物史観の説明になります。その分かりやすさゆえに、その言葉だけがどんどんと広まってしまい、「なるほど、マルクス唯物史観とは、下部構造(経済)が、上部構造(社会)を規定するって考え方なのか」として、「唯物史観は、経済がすべての経済決定論だ」と見なしてしまう人が増えてしまったわけです。

けれども、最初にも言ったようにこれは大きな誤解です。確かに、上の説明だけ見ると、唯物史観は経済決定論のようにも思えますが、実は違う。

なるほど、マルクスとエンゲルス「歴史の一番究極的契機は下部構造(経済)である」と確かに述べました。しかしこれは「歴史を動かす契機は経済だけである」ということを意味していません。

彼らが歴史における下部構造と同じくらいに重要視したのは、上部構造の反作用です。つまり下部構造が上部構造を規定するように、それを受けた上部構造もまた下部構造を規定するのです。(この反作用性についてはヘーゲルの弁証法[2]の影響が見えます)。

ここでエンゲルスの文章を引用します(以下、引用文の強調はすべて僕によるものです)。

そしてもしこの男[批判者]が、物質的存在様式が第一次的動員であるとしても、そのことは、観念的な諸領域が物質的存在様式に対して、反作用を、ただし第二次的な作用を及ぼすのを排除するものではないということを、まだ発見していないとすれば、彼はやっぱり、自分の書いているものの対象を理解できなかったのです。(エンゲルスからシュミットへの手紙)

もう一つ、ちょっと長いですが、同じくエンゲルスの書いた手紙から引用。

唯物史観によれば、歴史における究極的に規定的な契機は現実の生活の生産および再生産である、と。それ以上のことはマルクスも私も主張したことはありません。今もしだれかがこれを歪めて、経済的な契機が唯一の規定的な契機である、とするならば、彼はこの命題を無意味な抽象的な不合理な文句にしてしまうのです。 経済状態は基礎ではありますが、上部構造の色々な契機——階級闘争の政治的諸形態と闘争の諸結果——戦闘のあとで勝った階級によって制定された憲法、など など——諸法律形態、そしてさらにすべてのこれらの現実の闘争から参加者たちの頭脳に反映したもの、政治や法律や哲学の諸理論、宗教的な直観とそれらがさ らに発展して教条体系となったも、これらのものもまた歴史的な闘争の経過に影響を及ぼして多くの場合に著しく闘争の形態を規定します。すべてのこれらの契 機の相互作用のなかにおいてこそ、結局は、すべての無限に多数の偶然的なもの(すなわち、それらの相互の内的な関連が非常に遠いか、または証明できないも のなので、われわれがこの関連を存在しないものとみなし無視することができるような諸物や諸事件のことです)を通じて経済的な運動が必然的なものとして貫 徹されるのです。もしそうでなければ、ある任意の歴史時代への理論の適用は、じっさい簡単な一次方程式の解よりももっと容易でしょう。(エンゲルスからブ ロッホへの手紙)

簡単にいえば、歴史の変化のきっかけとなるのは経済だけでない。第一が経済であることは確かだが、政治、法律、宗教、哲学、思想、さらには戦争や侵略などの上部構造が、下部構造である経済に影響を与える形で、それらもまた歴史を動かしていく。これを踏まえれば唯物史観が経済決定論でないと分かるでしょう。

前掲の文章の他にも上部構造の反作用について言及された文章は多く、マルクスの代表作『資本論』の第三部でも、唯物史観における上部構造の反作用が強調されて解説されています。

というのはマルクスらは自分たちの唯物史観をもっとも有名にした『経済学批判』において、上部構造の反作用の重要性を強調しなかったことを後悔していたようです。

仲間の若い人々によって時おり経済的な側面にそれに相当する以上の重みが置かれるということは、マルクスも私も一部分は自分に責任があると思わなければなりま せん。われわれは反対者たちに向かっては、彼らの否定する主要原理を強調しなければならなかったし、また当時は、相互作用に参加する他の諸契機に当然の権利を得させる時間も場所も機会もつねにあるわけではなかったのです。(エンゲルスからブロッホへの手紙)

このことから見ても、唯物史観が経済だけに焦点を搾った経済決定論ではないことが再確認できました。よって唯物史観の説明として「下部構造が上部構造を規定する」という説明は言葉足らずで、不適切なものだと言えます。

まぁ、この1の誤解は一番されやすいだけあってWikipediaにも載ってるくらいなんで、知ってる人も多いでしょう。次にゴー。

2、「唯物史観は人間の感情を無視した歴史観だ」という誤解

さて2つ目に、唯物史観についてよく見かける誤解として、「マルクスは人間の持つ心の動きや宗教の重要性をまるで理解していない。確かに人間にとって食事や金は大事だし、実際にそれらの要素が歴史を動かしてきた。しかし人間はそれだけではなく、感情があり、神を信じる心がある。マルクスは宗教を否定し、人間を物質に還元してしまった」という指摘があります。

これも1の誤解で指摘したのと同じく、おおよそ間違った批判です。人間の感情や宗教心も上部構造である以上、反作用として下部構造に影響を与えることもあり、歴史を動かす一つの役割であったことは間違いありません。マルクスもエンゲルスも、けして人間の持つ心的感情や宗教心を否定しはしなかったのです。

ただし、マルクスらは人間の持つ感情や宗教心は、一人一人は個別なものであったとしても、社会全体の中では合成力として働くという指摘をしています。これはどういうことか。

確かに私たちは一人一人異なった個性と感情を持っています。しかし社会では、個人の持つ感情や欲求は、別の個人の感情や欲求によって否定されるということがよくあります。ある人が「Aがしたい」と感じる一方で、別の人が「Aなんて絶対にしたくない」と感じる。結果として人が持つ感情というものが社会という大多数の人間が集まる場所では平均的に均されてしまう。

意欲されたことは、ごくまれにしか起こらない。たいていの場合には、意欲された多数の目的が交錯したり衝突したり、こうした目的そのものがもともと実現できないものであったり、その手段が不十分なものであったりする。このようにして歴史の領域では無数の個々の意思や個々の行為が衝突する結果、無意識の自然を支配しているのとまったく類似の状態が生まれてくる。行為の目的は意欲されたものであるが、その行為からじっさいに生じてくる結果は意欲されたものでなかったり、あるいは、その結果が、はじめは意欲された目的に対応するように見えても、けっきょくのところ、意欲された結果とはまったく別のものになったりする。こうして、歴史上のできごとは、大体において、同じように偶然に支配されているように見えるのである。ところが、表面で偶然がほしいままにふるまっ ている場合には、この偶然はつねに内的な隠れた諸法則に支配されているのである。たいせつなのは、ただこうした諸法則を発見することだけである。(フォイエルバッハ論)

例えば僕がある映画を観て「この映画は素晴らしい!」といって絶賛したとしましょう。これも、映画作品をみて感動をするという、立派な人間の感情です。しかしだからといって僕が「この映画の視聴を国民の義務にしよう」と主張したところで、誰も共感してはくれません。世間はそういうわがままを許してはくれません。

要するに、経済に関わらない人間感情ってのは他人の共感を生みにくいんですね(もちろんまったく生まないわけではないですが)。とはいえ、僕が何かしたいという欲求をもっていること自体は確かです。よって人間の感情は社会において合成力として現れるのです。合成力とは社会の人々の感情を一つにまとめたものです。

しかし、第二に歴史は次のようにして進行します。すなわち、終局の結果はつねに多数の個別意思の葛藤から生じ、そしてその個別意思のおのおのが再び交錯する 力、力の平行四辺形の無限の群があって、そこから一つの合成力——歴史的な結果——が生ずるのであって、それはそれ自身また、全体として無意識的且つ無意思的に作用する力の所産とみなされうるのです。なぜならば、各個の欲するものは他の各個によって阻止されて、出てくるものはだれも欲していなかったものだからです。こうして、従来の歴史は一つの自然過程のように推移しているのであって、本質的にはまた同じ諸運動法則に従ってもいるのです。しかし、個々の意思——そのおのおのが体質や外的な究極的には経済的な事情(彼自身の個人的な事情かまたは一般的−社会的な事情)によって強いられているものを欲している ——が自分の欲するものに到達しないで、一つの総平均に、一つの共同の合成力に融合するということ(エンゲルスからブロッホへの手紙)

人間感情は合成力の内部で互いに互いを否定しあい、結果的に歴史を動かす力を急速に失っていきます。その結果、全ての人間がもつ自然的な欲求、つまり経済に対する欲求だけが唯一残るというわけです。つまり人間の意思はあっても結局は経済的な力が優越するというわけです。このことは私たちも普段の経験からよく分かることじゃないでしょうか。

しかしだからといってマルクスらが人間の感情を無視したとは言えません。エンゲルスは上の文章に続けてこういっています。

このことから、個々の意思はゼロに等しいとされるべきだ、と結論してはなりません。反対に、おのおのがその合成力に寄与しているのであって、その限りではその合成力のなかに包括されているのです。

人間の感情はやはり合成力として働いているのです。時たま人間の感情がある偏向を示せば合成力も十分に歴史を動かす要素となりえます。エンゲルスは上の手紙の中で北ドイツのブランデンブルクの歴史を例にだして、非経済的な伝統や人間感情が歴史を動かすこともあると強調しています。

また、人間感情には他人の反対感情の他にも、大きな制約があります。それは僕らも日常生活でよく知っている通り、経済的制約です。

われわれはわれわれの歴史を自らつくるのですが、それは、第一に非常に限定された諸前提や諸条件のもとでのことです。これらの条件のなかで経済的なものが究極的に決定的なものなのです。しかしまた、政治的な条件なども、じつにまた人間の頭のなかにうろるいている伝統でさえも、たとえ決定的な役割ではなくても一役を演じるのです。(エンゲルスからブロッホへの手紙)

物質、つまり食べ物や着るもの、お金がなければどれだけ人間の感情が強くてもどうにもなりません。専制君主がいくら望んだところで国にお金がなければ戦争は始められませんし、宗教家がいくら祈ったところで食べ物がなければ人は餓死します。

以上をまとめると、唯物史観の考え方では「人間感情は歴史において合成力としてのみ、また経済的制約を受けながら、一つの役割を演じる」と言えるでしょう。

こうやってみると確かに感情軽視にも思えますが、実際に歴史を見ると大体この通りなんじゃないですかね。どうでしょうか。

3、「唯物史観はすべての国に画一的な歴史発展を押し付ける歴史観だ」という誤解


マルクスの唯物史観では、「原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義→共産主義」と進むわけですが、世界には多様な国家、文化があり、このように画一的な歴史発展はありえないという批判です。

これも誤解ですね。マルクスは資本論をはじめとする自らの理論は西ヨーロッパにしか当てはまらないと断言しています。以下の引用はマルクスが書いた手紙の中でも最も有名な「ザスーリチへの手紙」と呼ばれるものです。

資本主義的生産の起源を分析して、私はこう述べています。
「したがって、資本主義制度の根底には、生産手段と生産者の徹底的な分離が存在する……この進化全体の基礎をなしているのは、耕作者の収奪なのである。この収 奪が徹底的な仕方で遂行されたのはまだイギリスしかない。……だが、西ヨーロッパの他の国々はどれも、同じ運動を通過するであろう」。(資本論)
ですから、この運動の「歴史的宿命」は、はっきりと西ヨーロッパ諸国に限られます。(マルクスからザスーリチへの手紙)

ザスーリチはロシアの女性革命家です。マルクスはロシアで革命をするなら、私の理論は必ずしも適用できないと言っているわけです。

またマルクスは、ロシアの雑誌で自分の歴史観が「世界のすべての国民に資本主義を普遍的な発展法則としておしつける図式的な歴史哲学だ」と指摘されたことに対して、批判の手紙を書いています。

[資本論の]本源的蓄積に関する章は、西ヨーロッパの中で、資本主義的な経済秩序が封建的経済秩序の胎内から生まれた道筋を跡づけようとしたものであって、それ以上のことを意図したものではありません。(中略)西ヨーロッパにおける資本主義の生成に関する私の歴史スケッチを、すべての諸国民に宿命的に押し付けられるような、普遍的に進行する歴史哲学に転化することが彼[批判者]には絶対に必要なのです。しかし、彼には申し訳ありませんが、それはご容赦願いたいものです。(それは私には過分の名誉であると 同時にあまりの恥辱でもあります。)(中略)こうしたしだいで、驚くほど類似した諸事件であっても、異なる歴史的環境の中を通るうちに全く様々な結果をも たらすのです。それらについてそれぞれの進化を別々に研究し、その後でそれらを比較するなら、その現象を解明する鍵を人は容易に発見することでしょう。し かし、超時代的だということがその至高の長所だといった普遍的な歴史哲学理論を、全てに通じる万能の合鍵のように使ったとしても、そこに辿り着くことは決してできないでしょう。(マルクスから『オーチェストヴェンヌィエ・ザビスキ』編集部への手紙)

これほどはっきりとマルクス理論が成立するのは西ヨーロッパだけだと言っているのに、それを無視してロシアでマルクス共産革命をしようとしたレーニンらボリシェヴィキの悲喜劇は前回の記事で紹介した通りです

4、「唯物史観はマルクスの歴史観だ」という誤解

最後は「唯物史観はマルクスの歴史観だ」という誤解について話します。これは何とも奇妙な文章です。唯物史観といえばマルクス史観のことに決まっているじゃないかと思う人もいるでしょ。

しかし、これは案外に重要なポイントです。マルクスとエンゲルスが唯物史観という発想に至った『ドイツ・イデオロギー』が執筆されたのが1845~46年。当時マルクスはわずか27才。マルクスはその生涯を通じてほとんど働きもせずに、ずっと哲学と資本の研究をしていた人です。唯物史観という思想自体も、その後の研究によってどんどんと変化をしていったと考えるのは当然でしょう。

例えば『経済学批判』と『資本論』における唯物史観の扱いの差異を見てみましょう。『経済学批判』においては唯物史観は序言で紹介されています。読者にとっ て序文とは一番最初に読む箇所であり、その意味で筆者にとっても一番力をいれるべきところです。つまり「経済学批判」を執筆した1859年の時点でのマルクスにとって、唯物史観は読者に真っ先に示したい重要概念であることが伺えます。

しかし、その後、1867年に出版された『資本論』においては序言から唯物史観は取り除かれてしまいました。ではマルクスにとって唯物史観は以前よりも重要度が低くなってしまったのか。この『経済学批判』と『資本論』間での唯物史観の扱いの違いに関する議論を、プラン変更問題といいます。

つまるところ、ある時点でのマルクスの思想を切り取って「これがマルクス史観のすべてだ」と言いきることはできない。あなたが想定している唯物史観は、果たして本当にマルクスの唯物史観なのでしょうか。「常識を疑え」とはマルクスの座右の銘です。

さて、それでは熟年マルクスの中では唯物史観はどのようなところに位置づけられていたのでしょうか。

結論からいえば、マルクスらは唯物史観という概念を、歴史研究の導きの糸であるとしました。つまり「唯物史観とは歴史研究をする際の仮説であって、結論ではない」という立場です。

ところで、マルクスのような理論科学者にとって一番やってはならないことは何か? それは「理論と現実が食い違ったときに、理論を優先すること」です。これは考えればすぐ分かることでしょう。理論を前提条件として現実を観察しては歪んだ観察結果しか生まれないことは火を見るより明らかです。

しかしマルクス史観に対して、このような批判がよくなされます。曰く「マルクス史観は階級史観や進歩史観が前提にあって、実証的な研究を無視している」。これは正に理論先行の似非科学の姿に他なりません。

実をいうとこのように、唯物史観を確定された理論として扱い、マルクスらが想定した「唯物史観を”手引き”にする歴史研究」ではなく、「唯物史観を”前提”とする歴史研究」を始めてしまったマルクス派の歴史家は、エンゲルスの生前から存在しました。エンゲルスはそんなものは歴史を研究していないのと同じであり、マルクスの歴史観とは似て非なる物だと断罪します。

唯物論的方法というものは、歴史的研究をするさいに、それが導きの糸としてではなく、史実をぐあいよく裁断するためのできあいの型紙として取り扱われると、その反対物に転化する(エンゲルスからパウル・エルンストへの手紙)

もう一つ引用。

今日では唯物論的歴史観も、歴史を研究しない口実にそれを利用しているような味方をたくさんもっています。マルクスが七十年代末のフランスの「マルクス主義者たち」について「私が知っているのは、ただ、私はけしてマルクス主義者ではないということだけだ」と言ったのとまったくそっくりです(エンゲルスからシュミットへの手紙)

エンゲルスは「マルクス史観を勘違いした自称マルクス派の歴史学者が唯物史観を大仰に叫ぶから、マルクスの唯物史観そのものが批判にさらされている」と嘆いていました。巷で「マルクス史観」と声高に紹介されている思想は、実は必ずしもマルクスの著作に合致したものではないのです。

5、まとめ

以上、唯物史観のよくある誤解について、簡単に説明をしてきました。現在、批判されがちなマルクス史観というものが多くの誤解に基づいていることが分かったんじゃないでしょうか。

しかし、ここまでマルクスの唯物史観が誤解されやすい原因はなんでしょうか。理由の一つにはもちろんマルクスの著作、理論の難解さがあげられますが、エンゲルスは、マルクス唯物史観を誤解する人に足りないにはヘーゲルの知識だと指摘します。

これらの諸君のみなに欠けているのは弁証法です。彼らはいつでもただこちらには原因を、あちらには結果を、見ているだけです。(中略)ここではなにものも絶対的ではなくていっさいが相対的だということ、こういうことを彼らは見ようともしないのであって、彼らにとってヘーゲルは存在しなかったのです。(エンゲルスからシュミットへの手紙)

唯物史観の本質は「経済的進歩史観」ではなく、ヘーゲルから受け継いだ「弁証法的進歩史観」にあります。ヘーゲルは歴史の基礎を精神に置き、マルクスは経済に置いたという違いはありますが、唯物史観をきちんと理解するためにはやはりヘーゲルのことを知らなければなりません。

とはいえヘーゲル哲学といえば意味不明難しいことで有名です。ヘーゲルをちゃんと勉強しようと思ったら、彼と同じくらい難解なフィヒテ、シェリング、カント、スピノザなど哲学の海に潜っていかなければなりません。これは大変すぎる。

また今回はあまり詳しく調べませんでしたが、マルクス史観の誤解の裏にはやはりソヴィエトの影響力が強いと思います。レーニン、スターリンをはじめとした歴代ソヴィエト主導者は、コミンテルンを通じて、誤ったマルクス史観を世の中に広めてしまった。

しかし、以上のことから「真のマルクス唯物史観は現代でも生きている」と言うのはやはり無理があると思います。実際、マルクス史観でもっとも肝心要の共産革命は西ヨーロッパでは起きてないわけですしね。

やっぱり、ある狭い地域の中だけでも、歴史を貫く法則を見つけ出すのは不可能に近い難行でしょう。その意味でマルクス唯物史観は、科学に不可能はないとする科学信仰の強かった時代の遺物なのかもしれません。

ただ、だからといってマルクスのことをよく知らないままマルクス史観を批判するのは、マルクス教の信者と何ら変わらない非科学的行為です。無知による批判は、無知による信仰の裏返し。「あいつの思想はマルクス史観だ」などとレッテル張りをするのはよくないです。正しい批判は正しい知識から。

あなたにお願いしたいのは、この理論を間接にではなく原典によって研究するということです。(フリードリッヒ・エンゲルス)

読了ありがとうございました。


[1]この「下部構造が上部構造を規定する」という言葉は、マルクスの著作『経済学批判』の序言にでてきます。この『経済学批判』の序言は、唯物史観の定式として知られ、短い文章で唯物史観の概観が理解できるので、唯物史観の参考文献の中では第一にあげられる著作です。

しかし本文中でも述べましたが、唯物史観という思想は、常に一つの式の中に当てはまるほど硬直した思想ではありません。冒頭にあげた『ドイツ・イデオロギー』やマルクスの代表書である『資本論』では、『経済学批判』とは異なった唯物史観の定式が現れています。例えば『ドイツ・イデオロギー』では交通形態という『経済学批判』には見られない用語が用いられています。

要するに『経済学批判』は唯物史観の絶対的指南書ではないんですね。エンゲルスはマルクスの唯物史観を学ぶにあたっては、マルクスが1852年にヨーロッパ革命の顛末について書いた『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の名前を出しています。その本ではヨーロッパ1848年革命という具体例を通じて、実例に基づいた唯物論的歴史展開が紹介されています。

[2]マルクスの唯物史観は、ドイツの哲学者ヘーゲルの影響を強く受けています。前回の記事でも書きましたが、唯物史観とはヘーゲルの弁証法を唯物論的に逆立ちさせた唯物弁証法の考え方を応用しています。

弁証法とは「ある物Aがあったとして、そのAの本質から生まれながらもAと矛盾した存在であるB。そしてAとBが互いに互いを否定し合って、止揚(アウフヘーベン)する。そしてその結果、全く新しいCという物が生まれる」という考え方です。

難解で知られるヘーゲル哲学の概念だけあってややこしいですが、丁寧にこれをみていけば上で説明した唯物史観の考え方そのままであることがわかるはずです。

社会の一番の基礎である経済(物A)。そしてそこから生まれながらも経済と矛盾した存在である政治、法、宗教などの上部構造(物B)。それらがお互いに作用しあって、社会が変化していく(物C)。

これが理解できれば、マルクスの唯物史観がヘーゲルの流派にあることが分かるはずです。もちろんヘーゲル弁証法は実際にはこんな単純なものではないので、より詳しく知るためにはヘーゲルの著作を研究する必要があります。

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