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アニメ映画感想『ラブライブ!虹ヶ咲 学園スクールアイドル同好会 完結編 第1章』――一流の美少女アニメと、その背景としての沖縄

1.総評 
 この世のあらゆるものは一流から三流まで幅を持つものであり、美少女アニメもその例外ではない。『ラブライブ!虹ヶ咲 学園スクールアイドル同好会 完結編』(2024、以下本映画を「えいがさき」、TVアニメ版を「アニガサキ」と呼称)は、美少女アニメにおける一流を示す秀作だ。
 本作の監督を務める河村智之氏は、かつて傑作コメディアニメ『三ツ星カラーズ』(2017)を手がけた方である。その職人芸的な有能さは「アニガサキ」以前から既に証明済みだったわけだが、実際「えいがさき」は、この種のコンテンツの作品(商業的事情が作品の芸術性に優越することを前提として制作されるもの)としては、例外的な充実度を示してやまない。
 その有能さがどのようなものかというと、一言で言えば、必要な演出を必要な分だけ行うことができるということだ。かわいいシーンはかわいらしく、コミカルなシーンはコミカルに、抒情的なシーンは抒情的に、それぞれにふさわしい画面を的確に演出することができるのである。しかもどれひとつとっても、やりすぎ感も不足もない。「自然に観ることができる」ということの高度な技術性である。
 群像劇として、人物の移動もよく設計されており成功している。ホテルを出ていくランジュに付き添うエマと、ランジュの母親を追いかけるかすみが各々に和解を媒介するという展開の無駄のなさ。ランジュと歩夢の会話シークエンスの印象深さ。この監督は、ちゃんと空間を使って人物の関係の変化を描写することができるのだ。そういう作り手は決して多くない。
 言うまでもないが、最大の「売り」であろうライブシーンも多彩なアイディアが繰り出され見ごたえがある。総じて、どこをとってもウェルメイドに作られていると評するしかないだろう(劇伴はやや過剰だったかもしれない)。やがて来る第2章はもちろん、河村監督の作るアニメを、これからもっともっとスクリーンで観てみたい、とそう思わされる出来映えだ。


2.土地よ、痛みを負え
 とはいえ、ひとつ気になったシーンがある。特設ステージが作られています、などとしずくが騒いでいる背景で、作業服を着た人々が首里城風の舞台を用意している場面だ。あの労働者たちは、どこから調達されたのだろうか。それについて考え始めると、とたんに憂鬱な想像へ導かれてしまう。
 仮にイベントの運営主体が東京から必要な全人員を連れてきたのだとしても、これだけ大がかりな催しともなれば、役所や県民の負担は相当なものだっただろう。彼らは、本土から自己実現のために来たキラキラ子女たちを“お迎え”するために、様々な気苦労を重ねなければならなかったにちがいない。それなのにこの映画には、そういう事情など存在しないかのように、観光地が観光地らしいキラキラ感で少女たちの旅を彩るばかりだ。
 わたしが「えいがさき」を観ていてどうしても違和感を覚えるのは、沖縄という場所を映画の目玉として設定しておきながら、それを単なる観光地としてのみ捉えており、そこで暮らす人々の具体的な息遣いや歴史が、画面から伝わってこないところにある。その意味でこの映画は、現地住民不在の悪しきツーリズム精神という批判を避けられない構造になっている、と言えなくはないだろう。
 ただでさえ、「琉球処分」から太平洋戦争、現在に至るまで、本土と沖縄の関係は常に緊張を孕みつづけてきた。20万の戦死者、いまなお残る本土との経済格差、そして31の米軍基地は、両者の関係を決してフラットなものにはしないだろう。いちおう断っておくが、沖縄を描くなら基地問題や経済格差もセットにしろとか、本土人はもっと「反省」すべきだとか、そういうことが言いたいわけではもちろんない。ある土地を描くからには、その土地に自らがどういう立場でかかわるつもりなのか、芸術家はよく考えなければならない、ということだ。
 沖縄についてよく学びましょう、というのは教科書や新書の仕事だ。映画はただ、土地が見せる様々な表情を見つめ、画面に定着させることしかできないだろう。知ることではなく、感覚すること。そのような感覚を映画に刻印することができたなら「えいがさき」は美少女アニメという枠を超えた本物の傑作になりうるだろう。まあ、そうしなかったとしても、じゅうぶん優れた娯楽映画ではあるのだけれども。
 


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