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アニメ映画感想『きみの色』――絶望的に退屈なこの映画は、愛について何を語ろうとしているのか?


1.総評

 気鋭のアニメ監督として国内外で評価を高めつつある山田尚子監督の最新作『きみの色』(2024)は、オルガンとギターをめぐる葛藤劇として、ひとまず捉えることのできる映画である。オルガンはキリスト教世界の規律を、ギターは自由と解放をそれぞれ象徴する。主人公たちの奏でる音楽を通して両者が融合するとき、物語は始まり、また終るだろう。『天使にラブ・ソングを…』(1992)を思い出す人もいるかもしれない。
 もうひとつ『きみの色』には仕掛けがある。主人公のトツ子という少女は、人を色彩で把握する共感覚の持ち主として設定されている。バンドメンバーのきみは青、ルイは緑。彼女はやがて自分自身に赤を見出すだろう。小林秀雄は「色とは、壊れた光である」と言った。ひととき「光」でありえた彼ら彼女らは、また「壊れた光」として自らの色彩に戻っていくだろう。その意味で、ラストシーンの紙テープは切ない。
 それにしても、キリスト教・音楽・色彩である。これはオリヴィエ・メシアンではないだろうか。佐藤多佳子の『聖夜』(2013)という小説を読んだことがある人であれば「課題図書」などという枠組には到底収まりようのない深みを持つこの傑作小説の書き出しを、必ず連想するはずだ。

六月の外気は、水と草と花の匂いがした。視覚、嗅覚、そして聴覚。あまりに聞き慣れていて、まさに空気のようなオルガンの音が、今日はやけに耳に響く。
 メシアンという現代音楽の作曲家は、音を色として感じるそうだ。なんとなく、ぼんやり、という感覚ではない。音楽を聴きながら、鮮明な色のイメージと変遷が脳内に起こる。和音を半音ずつ移調すると、そのたびに色彩が変化する。高音域ほど白っぽく薄く、低音域ほど黒っぽく濃くなる。視覚と聴覚が影響し合う共感覚と呼ばれるものだ。生後二ヶ月までの赤ちゃんの脳に認められ普通は成長と共に失われるが、メシアンのようにごくまれに保持している人もいるらしい。

佐藤多佳子『聖夜』


 山田氏がこの小説を読んだとも思えないが、しかし『きみの音』と『聖夜』は共有するものが多い。先述したオルガンとギターの構図にしてもそうだし「罪」の主題においても同様である。


 しかし『きみの色』は、『聖夜』の示した完成度とは比べるまでもなく、散漫な失敗作である。まず、どう考えても、あれこれ要素を盛り込みすぎだろう。ギター片手にキリスト教世界を脱出する少女、それを追いかける、かつてバレエを習っていたらしい共感覚の少女、医学部合格を嘱望されながら音楽に惹かれている離島の少年。この3者のドラマは、まずもってすべてが紋切り型のうえ、相互に何の深まりもないままだらだら進行した挙句「親とちゃんと話す」という、音楽とも色彩とも何の関係もない通俗道徳的な結論に行き着いて終わる。
 むろん物語はなくても、運動さえあれば映画は成立する。だが、この映画はたんに空疎で通俗的な物語をつくっているだけで、物語を棄てて運動の快楽を追求したなどと評価することはできない。棄てるならもっと徹底的に棄てなければならないし、つくるならもっと緊密なものをつくらなければならない。この映画はそのどちらでもない。つまり、いかにも中途半端なのだ。
 そもそも、本作の題をなしているはずの色彩についても、うまく扱えているとはいいがたい。色と音楽はどちらも波長だというような関係性は主張されているにせよ、それを映像として、あるいは物語として結びつけるアイディアがない。トツ子は自分の色を見ることができないという。彼女がそれをどのように発見することになるかというと、ご都合主義的に挿入された心象世界の中である。このあたりも、映画的にもっともつまらない解決がなされるので、興醒めしてしまう。
 とにかくこの映画には、100分ほどの長さの劇映画が備えてしかるべき最低限の緊密さがない、というのがわたしの感想である。もちろん見どころはある。1枚1枚の絵が上手い。円形のイメージの連なりがおもしろい。色とりどりの紙テープで締めくくるラストシーンがいい。何よりも「ゴッド・オールマイティ」のあの人がいい。書店での彼女が見せるあの軽やかな動きは、観ているこちらまで嬉しくなってくるほどだ。だが、やっぱりこれはだめなのではないだろうか。
 


 2.恋、3者、危険な関係
 この映画は性的な関心を描こうとしない。特にルイは、同年代の少女ふたりと抱き合うことに対しても、また寝泊まりすることに対しても、そうしたシチュエーションが一般に喚起するであろう可能性や警戒について、意識する様子がない。それを不自然さと言うだろうか。
 音楽、色彩、性愛の不在。もしかすると我々は、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013)を想起すべきかもしれない。決して成功したとは言えないこの小説は、性的なものを排除することで成立していた5人の「理想的」なコミュニティが、性的なものの回帰によって決壊するという設定から物語を始めている。生々しい欲望を抑圧して清潔なユートピアを作っても、結局それは抑圧された当のものによって崩壊してしまうんだよ、と村上はわたしたちに教えているのである。
 しかし、「多崎つくる」は5人のコミュニティだからまだいい。彼らは単に恐れすぎたのだ。それにひきかえ『きみの色』のバンドは3人である。これは人数からして危険だ。誰かと誰かがくっついたら、残り1人は必然的に排除されてしまう。恋はいつでも排他的な情動なのだ。いや、恋でなくても、人が3人集まったとき、既に緊張は始まっている。それは常に「2と1」のリスクを孕んでいるからだ。
 よくよく観れば、彼らの中にも恋愛に似た欲望が萌していることを示唆するシーンはある。トツ子がきみを追いかける導入部からして、それが恋に駆動されたものではないと誰が言えるだろう。しかし、そこにあと一歩でも踏み込めば、3者の均衡で成立する「光」ははかなく消えるほかない。
 青春劇としての『きみの色』がどうにも煮え切らない印象を与えるのは、このあたりに理由があるのではないだろうか。トツ子ときみの関係、きみとルイの関係は、いずれもある種の予感のままに終わってしまう。あと一歩を踏み出したとき、3者のコミュニティの調和は崩れてしまうだろう。『きみの色』のやさしい関係性の裏側には、一歩でも間違えば破綻してしまうというような不安定さがつきまとう。

 彼女たちの共同体がそのような破綻を免れたのは、結局のところ、それが一時的な関係だったからだ。船で旅立つルイを遠くから見守っていたきみは、ふいに走り出し、がんばれと叫ぶ。そこには明らかに、秘められていた情動の発露がある。光は壊れ、彼らは自らの色彩をふたたび生き始めるだろう。そういうものだ、とこの映画はわたしたちに教えているのである。





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