低志会とかいう人たちのアニメ批評のどうしようもなさについて

 故あって「鹿目まどか 神的暴力」というワードで検索していると(自分で書いていても嘘臭いと思うのだが、れっきとした事実である)、ひどいアニメ批評を見つけてしまった。
 むろん見も知りもしない他人の(しかも数年前の)トンチンカンな文章を読んだくらいで立腹し、わざわざ記事を書くほど狭量でもないつもりではある。だが、その人の文章を読むにつれ、何だかアニメ批評というジャンルそのものが抱えている問題が露呈している気がしたので、あえて取り上げることにした。


 そこで主張されていることの大筋は、わたしの誤読がなければ、次の2点にまとめられるだろう。「日常系アニメは安定した室内空間による庇護を前提として作られているが、2010年代に入って以降、そうした空間の破綻や変容に焦点を当てたアニメが増えた(主張その1)」「その変化には「実況」文化をはじめとするアニメの視聴環境の変化が関係している(主張その2)」。

 その主張そのもの賛否は、さしあたって問題にならない。率直に言って、およそありそうもない話だとは思うが、しかしまあ嘘だと言い切る根拠もないだろう。そもそもこういう主張が広く支持されたところで、別に誰かが困るわけではない、無害な仮説だ。

 わたしが言いたいのは、この主張を支える議論の展開がおかしいということに尽きる。それも、ある1ヵ所に重大な事実誤認があるとかいう性格のものではなく、その大部分にわたって、まったくでたらめな議論が行われている。もし仮にこういう人が、アニメ批評の有力な論客として世に出てくるのだとすると、それはもう無害とは言えなくなってくるはずだ。

 たとえば、この人は、2010年代に入って「従来の日常系アニメとは大きく異なるタイプの物語および映像が生成され」たという議論の前提を立証するために『進撃の巨人』を例に挙げ、次のように書く。

 たとえば、おそらく2010年代最大のヒット作のひとつである『進撃の巨人』(2013年4~9月)は、文字通り「壁」の外側から侵入してくる「巨人」に立ち向かう物語だった。巨大な壁に守られてきた「日常」はあっけなく崩壊し、人々はなすすべなく巨人に食い殺される。「ありふれた日々」を支える室内空間としての城壁都市が、巨人によって体現される生の理不尽──さしあたって巨人が(自然)災害の隠喩、というよりほとんど直喩であることは明らかだろう──を、もはや押しとどめられなくなっているのだ。

 ふつう城壁の内部を「室内空間」とは言わないし、『進撃の巨人』のような作品であれば、むしろ日常世界の崩壊から物語を始めないほうが珍しいだろう。巨人が壁をぶち壊すという、ごく古典的なスペクタクルを映像化したくらいのことで、なぜ「従来の日常系アニメとは大きく異なるタイプの物語および映像」なんてことが言えるのか、まったくわからない。

 要するにアクション漫画原作のアニメを、日常系アニメの文脈と無理やり結びつけようとして失敗しているのだが、角度のズレたまま直進していくロケットのように、ズレた発想からはますますズレた理屈が引き出されてくる。

 そもそも、日常系アニメの舞台となる教室や部室には、猛スピードで突進することを可能にするだけの十分な「奥行き」が不足している。だからこそ、『けいおん!』のオープニング映像では、カメラがまるで閉じ込められたハエのように、演奏する少女たちの周りをぐるぐると旋回し続ける(ことしかできない)のだ。つまり、『進撃の巨人』の目が回るような立体機動シーンは、舞台の書割のような室内空間を解体することで、はじめてアニメートすることが可能になったのである。

 日常系アニメの室内空間が解体されたことで立体機動シーンが実現されたという。わけのわからない進歩史観である。「可能になった」も何も、いわゆる日常系アニメには「猛スピードで突進する」シーンを描く必要などなく、『進撃の巨人』にはそれがあったというだけのことだろう。派手な空中戦を描くためには空間の広がりを用意するというのは、何も10年代になって出てきた発想でもあるまい。

 というか、そもそもの話なのだが『進撃の巨人』原作の連載が始まったのは2009年であり、この人の時代認識と合致しない。時系列的には日常系ブームの後に位置するにはするのだが、にしたって相当無理のある議論である。

 この人の議論のおかしさは、日常系アニメ=安定した室内空間→ポスト日常系=室内空間の不安定化という、ジャンルの違いも何も無視した歴史的展開を最初から想定してしまっている点に起因している。だから、以後の議論はすべてその図式ありきのものになっていってしまうわけだ。

 さすがに書いていて違和感が萌してきたのか、この人は「もちろん、年間100本以上のアニメが放映される現在では、このような見立てはあくまで恣意的なものにすぎない」と譲歩してはいる。まったくもってご自覚なさっている通りなのだが、じゃあその恣意性を少しでも取り除こうとするのかというと、別にそういうことはない。「しかしながら、空間のあり方に注目して作品を読み解くことは、まったくのこじつけというわけでもない」と強弁し、さらなる珍論へと邁進していく。

 このように、2010年代以降の少なくないアニメ作品が、日常系アニメを支える室内空間の解体ないし変容を描き出している。しかし、だからといって、すべての日常系アニメが無価値になってしまったというわけではもちろんない。

 あたかも「無価値」になってしまった日常系アニメが多数あるかのような書き方だ。進歩史観の持ち主の言うことはいつの時代も狭量なものである。そもそも「価値」なる概念の出現じたい唐突で面食らうほかない。

 もちろん、アニメ視聴をめぐる情報環境の変化が、作中の室内空間の不安定化を直接引き起こしたとは考えづらい。素朴な社会反映論と同様、素朴な技術決定論に陥ることもやはり避けなければならない。とはいえ、そうした環境下にある視聴者の多くが、もはや「ありふれた日々」を夢見るだけでは飽きたらず、それを脅かす生の理不尽にまで関心を広げつつあるとしても、それほど不自然ではないだろう。安定した空間=作品構造の変容は、それを見る視聴者自身の状況を部分的に映し出しているというわけだ。

 このあたりは何が言いたいのか理解できない。が「直接引き起こしたとは考えづらい」が「視聴者自身の状況を部分的に映し出している」? この人はつまるところ、情報環境の変化とアニメの空間表象の変化にどのような関連を認めているのだろうか。「というわけだ」と満足げに論じているが、具体的な説明がないので、何が何だかさっぱりわからない。

 論の後半を読んでいくと、どうもこの人が中心的に論じたいのは『とある科学の超電磁砲S』というアニメらしい。それは日常系の進化系であるところの「ポスト日常系」らしい。最初に突っ込みを入れておくと『とある科学の超電磁砲』の原作が連載開始されたのは2007年で、『進撃の巨人』同様、この人の議論とは噛み合わないのだが……。

 これは一見すると、日常系アニメとは無関係のようにも思えるが、必ずしもそうではない。それどころか『超電磁砲』シリーズは、いわば「戦う日常系アニメ」とでも呼ぶべき作品なのである。というのも、このシリーズの最大の特徴は、凶悪なテロリストと渡り合う迫力満点の戦闘シーンの合間を縫うようにして、友人との買い物やおしゃべり、お菓子作りといった女子中学生らしい「ありふれた日々」が織り込まれていることにあるからだ。しかも、少女たちはこの引き裂かれた状況をごく当たり前のように生きている。つまり、彼女たちの「日常」には最初から、そうした「日常」を脅かすテロリストを掃討することが含まれているのである。

 当該作を「日常系アニメ」の系譜に位置づける根拠はこれだけ。「ありふれた日々」を点描せず、非日常的な戦闘シーンばかりで構成されたテレビアニメなど、逆に想定しづらいのではないだろうか。「少女たちのありふれた日々が描かれている」とか「戦闘が日常化している」とかいった特徴で「戦う日常系アニメ」を定義するなら『美少女戦士セーラームーン』や「プリキュア」シリーズだって十分当てはまりそうなものだ。

 それでも最終的には、主人公はテロリストとして学園都市を壊滅させるのではなく、これまで通り治安維持に務めることを再帰的に選択する。「闇」にうごめく生の理不尽に絶望してなお、友人たちとの「日常」を守るために戦い続けることを決意するのである。その選択の是非はともかく、おそらくここには、日常系アニメの最も正統な進化系のひとつがあると言えるだろう。なぜなら、彼女は日常系アニメが先送りし続ける問い──「この日常に守るべき価値はあるのか」──に対して、自分なりの答えを見つけ出したからだ。それはつまり、フィクションとしての「ありふれた日々」と引き換えに、セキュリティの暴力を真正面から引き受けることにほかならない。

 「この日常に守るべき価値はあるのか」という問いに対する答えが「フィクションとしての「ありふれた日々」と引き換えに、セキュリティの暴力を真正面から引き受けること」? もはや文章が文章として意味をなしていない。だいたい「この日常に守るべき価値はあるのか」などというのはこの人が勝手に持ち出してきた論点であって「先送り」も何もない。とにかくこういうアニメ批評家は、自分が頭の中で思っていることと画面が語っていることの区別をつけることができないのである。宇野常○の影響だろうか?

 実のところ、この論考の後半部分の多くは『とある科学の超電磁砲S』が描くセキュリティ社会の功罪についての記述に捧げられている。そして、当該作そのものについての論述は、不思議なことに(?)、面白くはないにせよ、それなりに筋の通ったものなのである。つまりこの論考の問題は、概ねすべて「日常系→ポスト日常系」という「歴史」を想定してしまったことによって引き起こされているわけだ。

 この人は、なぜこのような「歴史」をつくってしまったのだろうか。先述したように、これは評論集のあとがきとして書かれたものであるから、作品論にとどまらず、何らかの概観的なものを提示しなければならないという思いがあったのかもしれない。

 ただ、これはこの論考そのものではなく、アニメ批評全体の問題として言うのだが、いわゆる「ゼロ年代批評」このかた、この界隈は一貫して、ひとつの作品の画面に映っているものをきちんと論じるということが軽視され、大雑把な俗流文化論的なことを言う人が持て囃されてきた。「自分の感性的判断を言葉にする」という批評の原点は、置き去りにされているように思われてならない。

 その原因ははっきりしている。いい歳をした大人が、美少女アニメやロボットアニメを正面切って論じることが恥ずかしい(と彼らは考えている)からだ。彼らは何かにつけて「文化」や「歴史」をこじつけようとする。もちろんそれは「ためにする議論」だから、牽強付会になるのは必然である。

 しかし、そんなことをするほうがよっぽど恥ずかしいのではないだろうか。このアニメにはこういうものがこういう風に映っていて素晴らしい(あるいは素晴らしくない)という風に、自分の価値判断を堂々と、理路整然と述べることのできる人間の方が、はるかにかっこいいのではないだろうか。
 裸体は、それが堂々と開示されている限り、どんなものであれ崇高なものである。隠そうとすればするほど、それは恥ずかしく低俗なものになる。そういうものだ。

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