死を覚悟するとき|イラク
※本記事は戦争の実体験を記事にしていますので、
不快に思われる方は避けて下さい。
「俺は今、死ぬのか?」
心臓の鼓動がバクバクと強くなり始めた。
パニックの感覚が心臓から体中へと広がってきた。
助かる手立てを思いつかない。
待て、待て、パニックになるな、
落ち着け、俺!!
1988年1月
完全に熟睡していた深夜1時頃、
突然の轟音で一気に目が覚めた。
これが自然災害等でないことは
すぐに分かった。
場所はイラクの地方都市「キルクーク」
当時の大統領「サダム・フセイン」
の生誕地でもあり、
油田が豊富な地域とも聞いていた。
当時は
イラン・イラク戦争の真っ最中
何があってもおかしくはない。
まずは自分自身に対して、
「落ち着け、落ち着け」と
必死になって呪文のように唱え続けた。
ここでパニックになって、
判断を誤ったらそれこそ危ない。
命に関わる最重大危険状態だ。
10分か20分か、
まずは自分を落ち着けることに集中した。
やがて呼吸が整い、
心臓も落ち着いてきたが、
恐怖感は拭えない。
そうか、
これが本当の恐怖というものか、
日本では有りえない!!
などととりとめもないことが頭をよぎった。
うかつに外に飛び出すことができないため、
できる範囲内で想像を巡らせて、
何が起きているのかを把握しようと試みた。
まず深夜の熟睡状態の中で、
一瞬の轟音が鳴り響いた。
それで目が覚めた状態の中で、
遅れて窓ガラスが振動した。
地震等の自然災害であれば、
一瞬という可能性は少ないだろう。
その轟音が今は静まり返っている、
ということは、
どんな武器だ、
爆弾か、
とも思ったが、
轟音に遅れて窓ガラスの振動があったことから、
これは大型の何かが、
少し離れたところに落ちた
と考えられる。
物理学用語で言えば、
「位相差」
というものだ。
振動の伝わる速度は、
地面と空気では全く異なる。
地面から鳴り響いた轟音が先に届き、
後から空気を伝わった振動が来たのだ。
もし近い距離に爆弾が落ちたなら、
轟音と窓ガラスの振動がほぼ一緒に来ただろうが、
そうではなく若干の時間差があったことから、
爆弾以上の大型の武器、
となると、
「ミサイル」
という言葉が頭をよぎった。
ええ~~!!!
まじか~~~!!!
勘弁してくれ~~~!!!
と思ったところで、
自分が何かできるわけでもない。
何一つできないことの恐怖感と無力感が
これほどのものだとは
想像すらできなかった。
恐怖感は拭えなくても、
とにかくひたすら自分に「落ち着け」
という言葉を念じるように言いながら、
頭を冷静に働かせようとした。
自分が住んでいたのは、
病院敷地内のプレハブ小屋だ。
爆弾でもミサイルでも、
一発あたってしまったら、
それだけで人間もろとも吹き飛んでしまう。
この状態で逃走できる
可能性はあるのか??
そもそも元々戦争しているわけだから、
治安等最悪だ。
会社からは、
日中であっても絶対に一人で外出するな、
ということを厳しく言われていた。
戦争ということは
何もかもむちゃくちゃだということだ。
ある程度平穏な時期であっても、
成人男性が誘拐され
レイプされ、
最後は殺されてしまう、
そういう噂が後を絶たない
状況だった。
ましてや、
この真夜中、
外には銃を持った兵隊が多数、
そのような状態の時に、
自分のような外国人が飛び出していったら、
いきなり撃たれてしまうことも考えられる。
撃たれなかっとしても、
拷問や男性に対するレイプも
十分にありえるだろう。
そういう状況なので、
今はとにかく外に飛び出すことはせず、
恐怖感に包まれながらも
ベッドの上にいることにした。
もちろん、日本のように
タクシーや電車等に気楽に乗れる場所でもない。
とにかく自分に向かって、
ひたすら「落ち着け」と言い続けながら、
しばらくは周辺の物音にも耳を傾けたが、
一切の音がしない。
これだけの轟音を
誰も気が付かないはずがない。
病院の患者、
スタッフ、
警備員等も私と同じく、
恐怖を感じながらも
パニックにならずに様子を伺っている、
ということを肌で感じた。
もし落ちてきたのが
本当にミサイルだったとしたら、
射程距離は数千キロに及び、
ちょっとやそっと逃げて逃れられるわけもない。
さらに普段から治安は最悪、
乗り物も自由に使えない、
そういう状況を考えると、
病院の敷地内にいた方が
まだましだ。
しかしながら、
どんなに落ち着いて考えようとしても、
確実に逃げ出せる手段が一つもない。
俺は本当にここで死ぬのか?
もしそうだとしたら、
自分の迂闊な考えでここまで来てしまった、
ということを後悔し、
何よりも両親に申し訳ないと思った。
大した学歴もお金もなく、
朝早くから夜遅くまでひたすら働いて、
自分を含めた5人の兄弟を育て、
大学にまで送り出してくれたのに、
その甚大な努力を
自分が無駄にさせてしまったことになる。
そういう両親に対して、
自分はいったい何ということを
してしまったのだろう。
これ以上の親不孝があるだろうか。
逃げることもできない、
そこに居続けても安全ではない、
という状況で、
一体自分に何ができるのだろうか。
全く何一つできない。
これほどまでに
自分に何もできることが
わずかなことさえもない、
という状況が有り得るのか。
ベッドの上で恐怖に覆われながらも、
轟音が鳴り響いてから約30分後、
救急車が病院から出発するサイレンの音が鳴り始めた。
おそらく病院で仕事していた人達も、
次の物はすぐには飛んでこないと
判断したのだろう。
落ち着いて考えてみたら
確かにそうだ。
大型のミサイル程、
高額な武器になる。
それを次々と放つことは
開発途上国という経済状態では
容易でないことはある程度想像はつく。
プレハブ小屋の外では、
フィリピン人スタッフ達10人以上が
歌を歌い始めた。
なんて勇ましい連中だろう、
日本人の自分は
とてもじゃないけどそんな気分にはなれない
と思ったけど、
後で本人達に聞いたら、
皆恐怖感でパニックになりそうだったから、
何かをして紛らわすしかなかった、
とのことだった。
翌朝になると、
病院内では
何事もなかったように
仕事が始まっていた。
普段から
情報管制の影響もあり、
かつ当時の大統領の恐怖政治もあることから、
戦況、地名、政治等については、
誰も絶対に口に出さない。
私のような外国人が
何かを聞き回るようなことをすれば、
それこそ秘密警察に捕まる可能性もある。
このため
迂闊に誰かに聞くこともできない。
しかしながら、
自分の命にも関わることなので、
やはり確かめずにはいられなかった。
そこでいつも一緒に仕事している人に、
周りに人がいないのを確かめてから、
小声で聞いてみた。
私「昨晩の轟音は何だったのか?」
聞いた相手は
少し驚きながらも小声で答えてくれた。
「鉛筆」
そして、
自分が持っていた鉛筆を持って、
それが飛んできた落ちたような
ジェスチャーを見せてくれた。
それで私は自分の想像内容について
確かめることができたと思ったので、
わずかに頷いて、
それ以上は聞かないことにした。
それ以上聞くようなことをすれば、
今度は聞いた相手の人を危険にさらすことになる
と判断したからだ。
私の居た病院は、
キルクーク市内から少し距離があったが、
ミサイルは市内の中心部に落ち、
大勢の人が、
子ども、老人、女性を含めて
亡くなったそうだ。
確かに自分の命はまだ存続したものの、
それを手放しで喜ぶこともできない。
大勢の罪もない人達の尊い命が失われたのだ。
後日日本から送られてきたわずかな情報では、
イランとイラクの間で
ミサイルによる相互の都市攻撃が活発になってきている、
とのことだった。
このことをきっかけとして、
自分はもうこの国には
二度と帰って来ることはない
と決意した。
以上