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0.ポルチーニ誕生物語


わるい・・・」 

店辞めてくれへん・・・」 

ポルチーニの始まりは、この一言からはじまりました。

今思えば、これからはじまる長い長~い道のりの号砲だったのかと思えます。 

当時は、外資系某ホテルを退職後、はじめてシェフとして向かい入れていただいたお店で意気揚々と勤務していました。 

いずれかは自分でお店をしようかと漠然と思いはじめていた頃で、新規オープンを経験することは、自分の未来にとって魅力的だったこともあり就職を決めたレストランでした。 

まちがいなく今のポルチーニの礎になった経験をさせていただいたことも確かです。 

その当時までフランス料理人として働いたお店はすべて一昔前の高級店特有のクローズキッチンだったので、お客さんの顔を見ながら料理するという初めての経験でした。 


お客さんの反応がダイレクトに伝わってくる環境だったので、「おいしい」「おいしい」と言われることが嬉しくてしょうがない。 

それがとにかく楽しかった。 

だから、また喜んでもらいたいので新しい料理を用意する。 

また喜んでもらえた。 

あの笑顔が見たくて新しい調理法や食材を勉強するって具合でした。 

まさしくポルチーニでやっていることですよね。 

と同時に急激に自分の料理に自信を持っていきました。

そして・・・

そのときがきたのです・・・

冒頭にあった突然の解雇通告です
(業績不振・・・etc) 


二人目の娘が誕生する2日前の・・・
衝撃でした笑 


従業員ひとり守れんくせに、タバコ吸うなっ!」 

昼下がりの昔ながらの喫茶店で雇い主に吠えていた私がいました。 

当時26歳、長くて厳しい下積みを経験してやっと・・・ってとこでしたからショックはあったと思われます(忘れました!笑) 

出産準備のために里帰りしている奥さんには何も言えませんでした。 

そんな大事な時に、解雇されたって口が裂けても言えません(と思っていた笑) 

そしてリストラパパ半料理人は、家族に嘘をつきました。 

仕事に行っているといって、淀川の河川敷や大きい本屋で時間つぶしの日々。 

たまに先輩のお店でアルバイト。 

次の就職先をいろいろ探してみたりするけど、もう子供2人の父親。 

稼ぎは必要なわけです(^_^;) 

今さらまた安月給からはじまるホテルに戻ることもできず 

だからといって無名の料理人が都合のいいポジションで働かせてくれるお店もツテもありませんでした。 

出産したばかりの奥さんにはあまり心配かけたくなかったので相談できませんでした。 

いや・・・恐ろしかったのかも笑 

いろんなお店に面接にもいきましたが、パッとせず。 

ヒマつぶしで通っていた堂島のジュンク堂で飲食店開業本を読んでいて「やるかっ!」ってなっちゃったんです笑 

怖いもの知らずと言うか、若気の至りとはこのことでしょうか、当時は、子供の記憶がないほど小さい内に、失敗しても後戻りできるだろって本気で考えていましたからね。

そこからは、…めちゃくちゃ早かった。 

資金もゼロの無謀な挑戦でしたが、情熱のみで乗り越えます。 

しかし、フランス料理を勉強していた私ですが、フランス料理で自分のお店をするってことを全然考えていませんでした。 

26歳という若さうえにフランス料理人としての技術や経験は諸先輩がたくさんいる中で、まだまだでしたし、とにかく稼がないといけないという頭でしたので、初めにとった行動は「焼き鳥屋さん」をオープンさせようと準備をしていました。 

たまたま知人が、名古屋コーチンとの掛け合わせの鶏生産者を知っていると教えていただいて伺ったところ、かなりおいしかったので、この鶏で勝負しようと準備していました。 

当時は、焼き鳥屋さんを繁盛させて稼いでから、ゆくゆくはフランス料理店でも……という若さゆえの甘い考えがあったと思います(^_^;) 

物件は、大阪市内をいっぱいいっぱい探しました。 

ミナミ、心斎橋から船場に新町、天満… 

いろいろ探した結果 

福島区に決めました。 

昔の「イタリア食堂」があった物件です。 

理由は1番家賃が安かったから。 

今のメキシコ料理屋さんは、エッチなビデオ屋さんだったんです。

だからこそ家賃が安かったんだとは思いますが、相当な反対を皆に受けましたけどね 

人通りもほとんどない暗い路地裏で、如何わしい店の前にイタリア料理屋さんなんてって(^_^;) 

貼紙には「貸家」と書いてありました 

今となれば、大阪でも有名スポットとなっていますが、当時飲食店は数えるくらいしかなく、空き物件の看板がそこら中にある暗い街でした。 

土地勘のあった福島区でしたが、まさか自分がお店をやるって考えは思いつきませんでしたが、福島区くらいしかできないくらい資金が足りなかったのです。 

今から考えれば運がいい٩( 'ω' )و 

しかしながら、2003年の鳥インフルエンザ大流行であえなく焼き鳥屋さんは、方向転換を余儀なくされたのでした。 

と同時期に知人が経営していたカフェが廃業になるという話が舞い込んできました。 

厨房機器から備品からトイレから全て使えるものは、激安価格で譲っていただき、イタリアンで勝負することに決めました。 

今のポルチーニにもありますよ(゚ω゚) 

取皿やシルバーは、もちろんのこと。 

二階のトイレの貝殻型の手洗いや、party2のロウソク型の照明。 

ついこないだ入れ替えしたフライヤーに 

いまある製氷機も。 

セントラルキッチンの台下冷蔵庫も当時のカフェのものです笑 

ポルチーニがオープンしたての頃のエピソードで…… 

ある常連さんがいて、そのお客さんが突然言ったんです 

**「前に働いていたカフェになんだか雰囲気が似てると…」 **

そして彼女は見つけました。 

ポルチーニにあった水差しに、自分が書いた「紅茶」という文字を……∑(゚Д゚) 

そしてあれよあれよと……

イタリア食堂タヴェルナポルチーニ」は、2003年9月10日に幕を開けたのでした。 

しかし、最後の難関が残っていました。
奥様への現状報告でした。 

久々にあった旦那が……

知らないうちにあっちこちに借金してお店始めてるって…… 

普通だったらありえないことを、いとも簡単にやってのける私に、正直あきらめているのか、肝が座っているのか…… 

もちろん修羅場にはなりましたが、すぐに了解して応援してくれました。 

本当に感謝しかありません。
一生頭あがりませんm(._.)m 

そして晴れてスタートしたのでした。 

それから……
あっという間の現在へ…… 

オープンしてからは、楽しいことも、本当に辛く辞めたいことも……
いろいろありましたが、それも人生。 

自分に、そしてポルチーニに関わっていただいた皆さんやお客様に少しでも出会って良かったと笑顔になってもらえるよな商いをしていきたいと思います。 

感謝合掌 

これまでの道のりへ……つづく 

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