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いのちのルールと人間のレール
このふたつの観点は、今日の状況を捉える物差しとして重要な意味を持っている。
いのちのルールとは、自然の中で生きていく共生的な死生の境界であり、いのちはこの定めに則り、自らの分をわきまえて棲み分けている。
熱帯・亜熱帯・温帯・寒帯の気候的な死生の定めに、陸・海・空の環境的な死生の定めに、春・夏・秋・冬の四季の定めに、などの分をわきまえ、いのちは自然界で繋がって暮らしている。
このいのちのルールを破壊しながら、人間のレールは轢かれてきた。
気候的定めを変え、環境的定めを飛び越え、四季の定めを無視して、すべてを人間中心のレールに乗せて自然を支配する文明社会を築いてきた。
今日の地球的課題といわれるものは、こうした観点からよく見渡すことができるのではないか。
人間が分をわきまえずいのちを支配し謳歌した末に、いのちの逆流に襲われている。
文明を否定するのではない。
その恩恵にあずかる一人一人の決断が今、迫られている。
人間の分とはなんだろうか。
ホモサピエンスが生まれて20万年。
二足歩行で地球全域を住処とし、意識の発達は止まることを知らず今日の情報社会は、個人がすべての情報の鍵を握るところまできた。
今こそ原点に帰るときではないだろうか。
それは言うまでもなく個人が自分の「いのちのルール」に則ることである。
誰かがではなく、あなたがあなたの「いのちのルール」に則ること。
それを実感し実践すること。
個別性を持ついのちは常に決断を個別に求める。
そのひとつの決断の連鎖が、全体性に大きな影響を及ぼし個別と全体がつながる。
それが「いのちのルール」の本来であり、それぞれの分(天分)を感覚を通し伝えてくる。
今その時に、いのちの多様性が発揮され全体的なうねりが生じてくる。
バタフライエフェクトと呼ばれるいのちの現象もそれに当たるだろう。
私たちは、意識できるものですべてを判断しようとする。
認識できなければ、非科学的と否定する。
こうした「古典的因果律」によって物事を組み立てる限界がそこにある。
すべては人間のレールから生み出された機械ではない。
本来いのちのルールによって生まれ、自然の中に人間のレールの存在もある。
そこには人間のレールでは測れない、いのちのルールの働きが厳然と現れ、その微細なエネルギーは確かに人間の無意識の深層にも届いている。
誰もが確知できる「感覚知」として。
今の環境問題は人為的な側面が多いと言われる。
カーボンニュートラルはその側面を端的に示す例だが、これを排出規制の因果律の問題として、人間のレールに乗せ解決を図ろうとしているが、人間のレールの問題での右往左往が新たな問題を生み出し、解決の道のりを遠くしている。
環境問題はいのちの問題であり、損得勘定に置き換えられない。
「感覚知」で捉えることが不可欠と言える。
今一度、いのちのルールの原点に一人一人が立ち帰ろう。
それが人間の分を知り、私らしく生きる未知=道が見えてくる。
こうした個別と全体が繋がり、いのちの本来のうねりとなって解決に向かわせるのだ。
私たちには想像力がある。
それを創造力に変える「感覚知」を共に育て、「いのちの智慧と力」を発揮させよう。
それがいのちのルールに則り、新たな人間のレールを確立する私達の役割なのだ。
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