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私たちの主体性はどのように立ち上がるのか?

アートエリアB1で開催されている鉄道芸術祭vol.9 都市の身体展に参加している小沢裕子さんのアーティスト・トーク「言葉の乗り物たちの集会」に参加して来ました。

小沢さんのトークの中で印象に残ったのは、まず小沢さんの制作の関心が「自分は外側から集めた言葉の寄せ集めに過ぎないのではないか」ということから、「私とは何か」ということへ、そして最近は「私たちの主体性はどのように立ち上がってくるのか?」へと変わってきたということです。

もう1つ印象に残ったのは、彼女のスピーカーズというシリーズの最新作で、最後にスピーカー役の人が歌を歌うとき、話者より先に歌ってしまったというエピソードです。

まず後者についてですが、言葉というのはもともと感情と一致していたが、ある時突然変異で、感情と一致しない言葉が生まれ、それによって人に知識を伝えたりできるようになったと言われていますが、もともとは感情と一致していたので、歌が感情を刺激すると自分を空っぽにしないといけない、スピーカーとしての役割を忘れさせてしまったのだろうと思います。

トークの後に小沢さんとこのことを話した時、でも感情も言葉と同じように主体的なものでなく、民族とか共同体の中で培われたものではないかという話になり、それはそうだと思いました。それでは私たちが考える主体性というものは幻想なんだろうかというのが次の疑問です。

小沢さんのスピーカーズという作品には、以前実際に参加したことがあるんですが、その際、できる限りスピーカーに徹しようとしたんですが、時々理解できない言葉があったりするとスピーカーになり切れないことがありました。つまり自分がこれまでに築き上げてきた言語体系のようなものからはみ出すことについては沈黙せざるを得ないという状況になるということです。

自分の独自性は、それまでの経験によって形作られるが、それがどの位独自であるのかは、他者との交流によってしかわからない。けれど、あらゆる人と交流できるわけもなく、ただ、何となく自分の独自性なるものは、ホモ・サピエンスという種全体の中の差異のなかでも、ごくわずかな誤差のようなものという気もしています。

それにもかかわらず、人と違うことをみつけると主張せずにいられない、わずかな差異へのこだわりが、独自性、主体性を生んでいるのではないかとか考えました。まだこれから色々考えてみたいと思います。

そんなわけで色々考えさせてくれる小沢裕子さんの展示はとてもおもしろいです。



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