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往復note(5):人間の理想的な在り方とは?への回答

Tさん、こんにちは。「感情の匂い」って面白いですね。私は何となく相手の機嫌とかはわかりますが、そこに匂いを感じたことはなかったですね。Tさんはそういう感覚が鋭敏なんですね。アーティストの中には人間としてのサバイバル能力が高いなと感じさせる人が多いなと良く感じます。そういう点は敵わないなと思うし、自分もできれば取り戻したいと思ったりします。

情報に依存しているということでは、外食する際、初めて行く店を選ぶ場合とかもありますよね。以前は、この店何となく良さそうという雰囲気を感じて選んでいたものが、今やネットの評価を見て行く場合が多くなってしまいました。(ネットの評価もだんだん当てにならなくなってはいますが。)その辺も動物としての能力を失くしていっている原因なのかなと思いました。

人間の理想的な在り方

さて、質問頂いた「人間の理想的な在り方」ですが、一般論としては、どの時代、どの国のどんな場所、どんな家庭環境で生まれ育ったかによって変わってくると思うのですが、そういう一般論ではなく、現代の日本のどこかで(あるいは想像できる範囲でのある国で)の話として考えてみました。

そもそもですが、本来人間って怠惰なものではないでしょうか。江戸時代の終わりだったか、日本に来た外国人が、日本人ってなんて働かないんだと驚いたらしいですが、むしろ今の日本人は働きすぎなんだと思いますね。人間って、何とかして楽しようと色々なものを発明してきたんはずなんですが、作れば作るほどあんまりのんびりできないというか、何かせずにはいられないようにされているようにも感じます。もっと怠惰でいられなければ理想的ではないように思うのです。一年のほとんどを怠惰でいても生きていけるのが理想的なんではないでしょうか。

ちょっとふざけていると言われそうなので少し真面目に考えてみます。生物としての人間という視点で見ると、人間は一人では生きていけないので、自分が信頼できると直感できる仲間と共に歩み、その仲間と自分が如何にして自分らしくいられるかを考え、お互いに協力し、歳を取ればより若い仲間のためにできることをして死んでいくというのが理想的だとは思います。そういう信頼できる仲間と共にあることで、自分の心が一部その仲間と共有されていき、自分が死んでもしばらくは仲間の中で自分の存在が生き続ける。そう思えることは死をあまり恐れない事に繋がるように思います。今の人が長生きすることに拘っているように見えるのもそういう仲間がいないことと関係があるんではないでしょうか。そのお互いに信頼できるということを直感できるかどうか、それを見誤らないような身体感覚を持つこと忘れないようにしないといけないですね。むしろそこが一番大事なところかもしれません。

「人間」であること・「理想的」であること・「在り方」

もう少し、「人間」「理想的」「在り方」のそれぞれについて考えてみます。「人間」というものを考える時、他の動物と比較することがあります。例えば人間とチンパンジーを分かつものとして、チンパンジーは病気でもう先が長くなくても先の事を考えないので、今、ここで楽しければ、楽しいと感じていますが、人間は先の事を考え、悲観的になってしまうということがあります。今、ここ、に集中するというのは瞑想の目的の一つですが、「人間」である限り、今、ここと未来(過去)のことを考えるというバランスが必要なんだと思います。未来は不安があれば来て欲しくないし、希望があれば来て欲しいものになるので、不安が大きければより、今、ここに集中し、希望が大きければ、未来をより考えるということです。そのバランスが今の自分はどうなのか、立ち止まって確かめるということも大事かなと思います。

「理想的」という時、たぶん自分一人の望みではないんではないでしょうか。少なくともあるグループ、住んでいる社会のある一定数の人たちが同意する「理想」があってそれに合っているというようなニュアンスを感じます。つまり自分の属するグループにおける価値観がどうなのかによって左右されそうに思います。なので、そのグループの「理想」とされているものが、自分にしっくりこないと感じるのであれば、そのグループは自分の属すべきグループでないということになるんではないでしょうか。グループから出ることは勇気がいるかもしれませんが、無理に価値観を合わせることの方が、長期的には不健康のように思います。

「在り方」という語を辞書で引くと以下のような解説が出てきます。

1 ある物事の、当然そうでなければならないような形や状態。物事の、正しい存在のしかた。「会議の―」「福祉の―」

2 現にある、存在のしかた。ありさま。ありがたち。

1の意味を取ると、「理想的」と近いようにも感じますね。2の意味に取ると現在の状態のように感じます。今、現在、理想的な状態にあるとしても、それがずっと続くとは限らないわけで、自分の属するグループの価値観がしっくり来るのかどうかを自分以外のグループの価値観にも触れながら、絶えず感じ、判断していかなくてはいけない気がします。

つまり、人間の理想的な在り方は、目指すべき一点ではなく、絶えず動き続けるようなものなので、それに合わせるには、自分も変化していかないといけないもののように思います。それに常に合わせていくべきなのかどうかについては疑問もあり、別に理想的な在り方に拘り過ぎなくてもいいんじゃないかという風には感じます。

人間拡張について

「人間の理想的な在り方」についての質問の前に、人間拡張について触れられていたので、それについても考えていることを少し話したいと思います。稲見昌彦編『自在化身体論』を読むと、人間拡張の先に、自在化身体ということが想定されているようです。それが目指すのが次の5つで、人間拡張は、そのうちの①、②になるそうです。

①感覚の強化(超感覚)

②物理身体の強化(超身体)

③心と体を分離して設計(幽体離脱・変身)

④分身

⑤合体

この③の部分が気になりました。④、⑤も③が前提となるようです。自在化身体とは、肉体という自分の身体の制約から心を開放するのが目標らしいのですが、個人的には、心は身体とある意味、一体化していると思っているので難しいのではないかと思います。只、心は身体に閉じ込められているわけでなく、周囲にダダ洩れしているとも思っていて、だからTさんが匂いによって感情がわかるように、近くにいると何となく伝わったりすることがあると思います。なので、今はバーチャルなアバターに心をコピーするようなことはできないと思うのですが、ダダ洩れているものが何かわかり、それを再現できるようになった時には、小さい時からバーチャルなアバターを使って他のアバターと交流しているとバーチャルなアバターとしての私にもなにがしかの心が生まれるかもしれません。但し、そこで生まれる心が、持って生まれた身体から生まれる心と同じものになるかどうかは別の話のようにも思います。すると自分の身体の心とアバターの心で二重人格のようになるのか、2つの心が何らかの形で統合された心が生まれるのかはわかりませんが、ある人にとってはアバターが救いになる一方で、別の人には新たな問題を起こすかもしれません。

身体拡張が進もうと元の身体が持っていた存在としての心が発しているものが、拡張された現実でも仲間を見つけるための鍵ではあり続けるんではないでしょうか。それが人間の理想的な在り方にとっても大事であり続けるように思います。

自在化身体論について補足しておくと、人間が本来持っている潜在能力を使えば腕が4本使えたり、今、こことバーチャル空間の体を同時に操ったりすることは可能であり、それが倫理的に許される範囲でどこまで可能かを探ることは興味深いし、特に怪我や病気で、体の機能を一部失った人が、人工のものでその機能を代替できるということはとても意味があると思います。只、上で言いたかったのは、バーチャル世界で、新たな人間関係を構築していく時、リアルと同じように身体的感覚によって誰と繋がるのがいいかを判断できるようなものがあるべきで、それは今のバーチャル空間にはないということです。

アート作品が「わかる」とは?

ここから少し話題を変えますね。美学者の吉岡洋さんが、ジャクソン・ポロックをネタに抽象絵画が「わかる」とはどういうことかを書かれた文章があります。

吉岡さんは、抽象絵画について”「分かる」とは合理的な理解や納得ではなく、そこにはある種の身体的跳躍、意識のモード変更といったものが含まれている”と言われているんですが、アーティストであるTさんが「わかる」って思う時は、何か身体的に感じるんでしょうか?「わかる」ことと、それを言語で表現することは違うということをわかった上で敢えて聞いてみたいと思います。対象は特に抽象絵画に限るということではなく、一般によくわからないと言われている現代アートの作品のことでもいいので教えて下さい。

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