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失われた感覚を求めて
アートを鑑賞することが習慣になってから、沢山のアーティストと出会い、本当にいろんな話をしてきました。そんな中で自分がアートにどんなものを求めているのかもはっきりしてきました。それは作品がどんなものであれ、自分の感覚が開かれていくような鑑賞体験です。
感覚が開かれるとはどういうことか
しかし、感覚が開かれるとはどういうことでしょうか?アート作品の鑑賞は視覚情報に依存することが大きく、目で見たものから何か身体に反応が伝わり、何かを感じるというパターンを辿ります。それはそれで面白いのですが、何か物足りないものを感じる時もあります。その物足りなさはどこから来るのかということを考えていると、それは本来人間が持っていた感覚を十分に呼び覚ましていないのではないかと感じるからです。
あるアーティストと話をしていた時、「自分は相手と話をすればその人が自分にとって害のある人間かどうかわかる、何ならネットで話をしているのを見ても悪い人かどうかわかる」と語っていたのが凄く印象に残っています。そのアーティストは、相手の身体が発しているメッセージを受け取る能力が高いのだと思います。
こう言った能力は、自営業者が多かった時代には、どこまで正確にわかるかどうかはともかくある程度多くの人に備わっていたんではないかと考えたりもします。それは商売をしていると相手に騙されたりする場合もあるので、相手が信頼できる人間かどうかを見抜く能力が鍛えられていくからだと思います。私の実家は自営業だったので、父は客が来た時、その人が買う気があって来たのか、ただの冷やかしかはぱっと見でわかると言っていたのを思い出しました。
遡れば、縄文時代のように狩猟採集社会であれば、日々の食料を得るために、また猛獣等からの危険を避けるために、周りの存在に対する感覚は研ぎ澄まされていたように思うのです。だから縄文時代に戻れというわけでなく、実際、今こんなに社会が複雑で人も多い中で、あらゆる存在に注意を向けていると疲れ果ててしまうと思います。
感覚を開くことが何故必要か
それでも、前述したアーティストのような感覚をある程度持っていたいと思うようになったのは、昨今の偽情報が溢れた状況の中で、何が正しいのかを発信元が信頼できるかどうかによって判断しなければならない状況が圧倒的に増えてしまったなと感じるからです。ある意味、現代のサバイバルスキルと言えるのではないでしょうか。もちろん自分で正しい情報を常に受け取ることができるのであればいいのですが、社会が複雑になった今、そんなことは不可能で、どうしても他人経由で情報を得る必要があるからです。
そんな風な感覚を呼び戻してくれるような体験をアート作品を通して感じられないだろうかというのが最近の関心事です。それはインスタレーションのようなもので、何度も体感する必要があるかもしれません。あるいは、もっと場所を選ぶ必要があるのかもしれません。例えば磁場を強く感じられる場所であるとかです。
古代の遺跡や神社がそういった場所に作られていることは、かつての人たちは普通にそういう感覚(磁場が強い場所等を感じられる)があったからだと思います。事前にその場所に神社や遺跡がどういう経緯で作られたのかを学んで行けば、何かを感じられるかもしれません。アート作品でそれに代わる体験ができないかと思ったのは、そういう場所に気軽にアクセスできない人も多いのではないかと思うからです。
鑑賞体験としてのチームラボと杉本博司
アート作品から、身体感覚が開かれるという体験をするのはあまりないのですが、DIC川村記念美術館のロスコルームはその1つと言えるかもしれません。あの部屋にしばらくいると何かが感じられるような気がします。そしてしばらく鑑賞していられるような作りになっていることもあります。
現存のアーティストでは、チームラボや杉本博司の建築と作品が一体化したものにそれを少し感じます。チームラボは、代表の猪子氏の話を聴いていると鑑賞者の感覚体験を変えたいという意図を凄く感じます。「ボーダレス」というキーワードで境界をなくしたいということを猪子氏は良く語っています。実際に京都の糺の森と下鴨神社での野外展示、あるいは六本木のチームラボサウナなどは、身体感覚に何か変化をもたらそうと意図しているように思えました。そこでの体験は面白いものでしたが、私の求めているものとは違うようにも感じました。何と言うか潜在的な感覚を解き放つようなものではない気がしました。まあ、これらの展示が猪子氏が意図したものを100%実現しているわけでもないかと思うので、今後の展開に期待したいです。
一方、杉本博司は自ら建築にも携わり、江之浦測候所を自分の作品として場所を含めた鑑賞体験をもたらすことを目指しているようにも感じます。それは彼のコンセプトにも表れています。
悠久の昔、古代人が意識を持ってまずした事は、天空のうちにある自身の場を確認する作業であった。そしてそれがアートの起源でもあった。 新たなる命が再生される冬至、重要な折り返し点の夏至、通過点である春分と秋分。天空を測候する事にもう一度立ち戻ってみる、そこにこそかすかな未来へと通ずる糸口が開いているように私は思う。
未来に通ずる糸口がかすかかどうかわかりませんが、もう一度、忘れてしまった感覚を取り戻す必要があると感じるアーティストが存在することは嬉しく感じます。
チームラボや杉本博司のように大がかりでなくとも、小規模なインスタレーションでも、そういう潜在的な感覚を取り戻すような体験ができる展示が増えたらいいなと思います。