見出し画像

「怪物」とは何か

最近、怪物(モンスター)と名のつく映像作品を立て続けに観る機会がありました。是枝裕和監督作品の映画『怪物』、Netflixの韓国ドラマ『怪物』、そして同じくNetflixの浦沢直樹原作のアニメ化作品『MONSTER』です。

タイトルが同じか、似ていながら内容はかなり違います。『MONSTER』はドイツやチェコなど欧州各国が舞台であり、韓国ドラマ『怪物』は韓国の少し田舎の村が舞台、そして是枝映画『怪物』は、地方の小学校とその周辺が舞台の作品です。是枝映画で描かれる”怪物”は具体的に誰とか特定されるわけではなく、何か観る側があの人が怪物じゃないかということを色々想像すするのを製作側に試されている感じもします。

ここでは、韓国ドラマ『怪物』とアニメ『MONSTER』を題材に"怪物"について考えてみたいと思います。”怪物”というと普通どんなイメージを抱くでしょうか。私にとっての怪物のイメージは、何の良心の呵責なく、人(や動物)を殺したり、傷つけたりすることができ、その後何もなかったかのようにふるまえる存在という感じです。韓国ドラマ『怪物』では連続殺人犯であるスーパーの店主カン・ジンムクが”怪物”と呼ぶべき存在なのでしょうが、途中までは犯人を追う警察官ドンシクが怪物的に描かれており、そこがこのドラマを重層的にしています。むしろドンシクの方が怪物なのではないかという雰囲気がドラマの前半ではあります。ドンシクの行動が謎めいて見えるからです。

人の行動がよくわからないということは、人を”怪物”にする第一歩であるかもしれません。実際、是枝映画の『怪物』では、そのことだけが”怪物”というタイトルと結びついているような気もします。それに対し、韓国ドラマ『怪物』のジンムクの行動、特に殺人を犯した後の行為は理解しがたく、それを追うドンシクが”怪物”的になるのも、犯人の行動を理解するためなのかという観点から考えると納得できるようにも思います。これは『MONSTER』において連続殺人犯を追い続けるルンゲ警部にも言えるかもしれません。

韓国ドラマ『怪物』のジンムクは、障害を抱えており、ドラマの中ではどちらかというと弱者で、ドンシクに助けられているようなキャラなので、一見”怪物”ぽくないですが、実は連続殺人犯というギャップによって”怪物”的に見せているようにも思います。そして殺人そのものよりも殺した女性の指だけを殺害現場に残し、死体は別に埋めているところが猟奇的であり、怪物的であります。単に人を殺すだけでなく、その指を切り落として見つかるところに残しておく、その行動が普通の人には理解できないことが”怪物”的要素となっているように思います。それでもジンムクが女性から愛されないことからこじらせて”怪物”になっていくのは全く理解できないわけでもないです。

一方、アニメ『MONSTER』のヨハンの場合は、連続殺人の規模も比較にならないほどの事件です。そしてヨハンのことは最後まで観終えてもよく理解できない存在です。ヨハンは、共産主義時代のチェコの秘密警察によるプロジェクトによって誕生した”怪物”です。その『MONSTER』でもっとも印象に残るのが、作中に登場する童話『名前のない怪物』です。ヨハンという名前も本名ではないらしいということがわかってきます。名前を持たないということが、なぜかヨハンにとって大切であるようで、ヨハンは自分を知る者、かつて知っていた者を次々と殺害していきます。

名前がない存在とは、社会から見れば存在しないも同然ですが、なぜヨハンはそれを求めるのか、いや求めてしまうのか。固定した関係性に囚われてしまうことへの拒絶、それゆえに関係が固定してしまいそうになるとぶち壊してしまいたいという衝動に駆られる。双子の妹、ニナとの2人だけの世界が理想であるかのようです。本当の理想の世界は今ここにはなく、まだたどり着いていない未来の世界があるのだ、だから今ここの世界は壊さないといけないと、何か永久に革命を求め続ける革命家のようでもあります。そんな存在が共産主義下のチェコで誕生したというのも頷ける面があります。共産主義というのは、常に理想の世界を求めて今、目の前の現実をぶち壊し、革命によって暴力的に理想の世界、それは決して実現されることのない、理想の世界を求め続けるからです。

結局、ヨハンを”怪物”にしたのは、童話『名前のない怪物』の作者であり、共産主義者にとってのカール・マルクスと言えます。『名前のない怪物』とは『共産党宣言』ではなかったのか。共産主義という”怪物”と闘うために名前をなくさないこと、つまり今、ここを充実した関係性の中で生きることが大事なのではと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?