『フラニーとゾーイ』を読んで
『ライ麦畑でつかまえて』しか知らなかったサリンジャーの門を、知人のお薦めで入っていくところです。「サリンジャー」と検索して伝記的映画がヒットしたものだから、それを観てからの『フラニーとゾーイ』村上春樹訳。
(ネタバレあり)
宗教書に逃げ込み自分の殻に閉じこもる妹フラニーを救い出す兄ゾーイ(ズーイ)。
細やかで妥協のない表現。素人が読んでも小説の設計図の圧倒的な確かさを感じさせます。伝えたいことが明確で最終の数十行に尽きるにも関わらず、その確信を形造る骨格やメンバーの固め方たるや。やはり神は細部に宿る。自分の仕事はなんと足りないことかと見直してしまいました。
サリンジャーの宗教に対する造詣が垣間見えながらも、シンプルな答えがすばらしい。
「太ったおばさん」こそがキリストなんだ。
親鸞聖人とキリストは、時代と場所が同じなら親友になった筈だと言う説があります。
キリストは、罪人こそが神に一番近いと言う。親鸞は、「いはんや悪人をや。」 善人が往生するのなら、悪人はなおさらと言う。
そんな優しいまなざしを感じさせます。
思春期特有の完璧主義に陥り、両親や大人たちの不甲斐なさに反抗心が芽生え、それが社会ならもうこの先、生きていけないのではないかと閉じこもりがちなフラニーの心。フラニーに伝えていくことで自分自身もそこから脱却しようというかのようなゾーイの言葉の過程が、細やかに描かれています。
一度はフラニー救出に失敗し、フラニーは更に落ち込んだかのように思われますが・・・
次にゾーイは兄バディの力を借りて、フラニーを救い出します。失敗したらただのなりすましの嘘つき。最初は読者も電話の相手が本物のバディだと騙されますが、なりすましたゾーイのフラニーに対する細やかな本気度を、フラニーと共に知っていきます。
そこで出てくる「太ったおばさん」理論。
思春期の娘の目線に合わせたキーワードは、どの年代のどの目線にも置き換えることが可能。秀逸な一冊。出会えてよかったです。