私は「捨てられた」と思っていたが、「捨てたんだ」と気付いたら心が軽くなった
自分は「捨てられた」と思っていた。
人間関係で捨てられたという思いは自分の中に強く残る。特に家族や友達からの言葉は記憶に鮮烈に刻み込まれる。
「自分が嫌な奴」だから、捨てられたという訳だ。この考え方は自分という存在に対する嫌悪感を抱かせた。自分に自信がなくなり、嫌いにもなった。
「お前はつまらない」「性格の悪いやつ」などの一撃があれば強烈だ。その一撃でメンタルはKOである。
あの人は自分を嫌だから捨てた、という他人の視点から「自分は捨てられた」と受動的に考えると、自分の心にダメージを与える。トラウマにもなる。
だが、「捨てられた」というのは自分の思い込みだと気付いた。いやいや違う、自分で「捨てた」のだと。
事実、自分から交流関係をやめていた。しかし、どちらが先に連絡しなくなったのかは問題ではない。結局のところ、その人との交流を続けていないということは、自分はその関係を捨てたということだ。
たったこれだけの視点の転換だが、自分には救いになった。「捨てられた」だと自身を嫌なやつ、人付き合いに問題があるというネガティブなイメージが暗い影のように付きまとう。しかし、「捨てた」だと自分で嫌な人と付き合わないという決断をした、勇気があるというポジティブなイメージになって、自信がつく。
むしろ、嫌な人間関係をズルズル続けているほうがはるかにネガティブなことではないか。考えてみれば、当たり前のことである。
なぜ捨てられたと思っていたんだろう?
人間関係では、嫌な人でも「わざわざ切り捨てるほどではないか」と考えていたようだ。嫌われないために捨てることをせずに、自分の気持ちを犠牲にしていた。今思えば、そんな人生はごめんだ。
日頃から私は主体的に生きようと心がけている。それでも時には受動的に生きていることに気付かされる。
自分は捨てられたと考えて、自分を傷つける必要はない。自分が一緒にいたいと思う人との時間を自分で選べばいいだけなのだ。
ネガティブに考える必要はない。むしろ、嫌なものと一緒にいるほうがネガティブだ。望まないものを選ぶと、自分の望まない人生になってしまう。
主体的に大切にしたいものを選んでいけばいい。そうすれば、自分の望む人生を得られる。
問題をどう捉えるかによって、人生は変わる。
受動的に悲観するのではなく、能動的に楽しく考えよう。おのずと行動も変わってくるはずだ。
お前は「捨てられた」んじゃなくて、「捨てた」んだよと。