見出し画像

その時、私の人生と交わった。肥薩線、3つのエピソード【17歳・21歳・27歳】①17歳編

はじめに

JR肥薩線が私のふるさと、熊本県八代市坂本町に開通したのは明治41年(1908年)のこと。
それから112年後の2020年、あのような未曾有の災害が地域を襲うとは、誰が想像していただろう。

近代化産業遺産でもあった球磨川第一橋梁は無惨な姿に


あの日から、肥薩線は時が止まってしまった。当たり前に毎日走っていた、たった1両の白いワンマン電車も、観光列車として人気だった「かわせみ・やませみ」も、肥薩線の顔とも言える「SL人吉号」も、いくら沿線で待っていてもやってくることはない。ひっそり静かな坂本の沿線にカンカンカン、と鳴り響いていた、踏切の音も聞こえない。

肥薩線の顔、SL人吉号

今、肥薩線は岐路に立たされている。肥薩線の未来が変わろうとしている。それが嬉しい方向へなのか、悲しい方向へなのかはまだ分からない。だけど思い返すと私の人生は間違いなく、いくつかの場面で肥薩線と大きく交差していたと気付く。


通学で毎日利用していた、17歳の私と肥薩線

当時の葉木駅。

時は2005年、私は15歳。地元の坂本中学校を卒業し、4月から八代市中心市街地にある高校に通うことになった。
中学校までは実家そばのバス停から産交バスで直通だったので、通学は楽チンだったけど、高校となるとそうはいかない。片道20キロ以上あって、JRと自転車を利用することになった。しかも、私が選んだのは進学校。毎朝7時半から「朝課外」があるので、なんと6時10分くらいの電車に乗らないと間に合わなかった。(次の電車が1時間近く空くので、それだと間に合わない)
だから毎朝、5時台に起きて、支度をして朝食を食べて、母に最寄りの駅まで送迎してもらっていた。駅は無人駅の「葉木駅」。白いコンクリートの建物で、ほんとにこぢんまりしていた。ちょっとさみしすぎるな、といつも思ってた。

数年前に建替えられ、現在は全く別の建物になっています

今思うと、母は5時前に起きてお弁当をつくってくれ、私はあまりにも厳しい進学校の学習カリキュラムについていくのに心身ともにヘトヘト、出発ギリギリまで寝ていることもあって遅刻しそうな朝は一度や二度ではなかった。
でも遅刻は許されない。だってこの電車しかないから。
踏切が鳴るのと同じくらいに駅に到着することもしばしばで、無事に電車に乗れたら『ふーっ!』とため息をついていた。
そして一つ前の「鎌瀬駅」から乗車していた、同じ高校に通う親友を見つけるとホッとして、私たちはいつも大量の課題を電車の中でこなしていた。
与えられた時間は約15分。
私は大抵、英語の課題プリント一枚をやっつけた。そう、もはや「やっつける」という言葉がしっくりくる。電車で過ごす慌ただしい朝の15分。


だからもちろん、車窓からの景色を楽しむ余裕なんて1ミリもなかった。
視線は常に下向き。そう、膝のうえの英語の課題プリント。
しかも冬なんて、6時すぎはまだまだ暗い。
真っ暗な球磨川沿いを、ワンマン電車は八代に向かって走っていく。
景色は何も見えなくても、「ガタンゴトン」と揺れるリズムが妙に心地良く、その「揺れ」をしっかりと感じながら、私は電車に身を任せていた。
3年間、どんな時もいつも必ず葉木駅から八代駅まで運んでくれた、肥薩線。
どうもありがとう。
※②21歳編につづく…(更新日未定)

桜の時期の葉木駅周辺は本当に素晴らしいのです。(現在は自転車置き場は撤去)

JR肥薩線の復旧を願い、沿線の住民が動き出しています!
現在署名活動をされていますので、趣旨にご賛同いただける方はどうぞよろしくお願いいたします。
↓ウェブ署名はこちらから


いいなと思ったら応援しよう!