わたしの新宿
Sサイズの紺色のキャリーケースを引っ張って歩いた新宿という街。
年季が入りすぎて車輪の音が死ぬ程でかいという事実に、田舎暮らしのわたしはこの街にくるまで気付かなかった。比較対象があって初めて己を知るんだなって新鮮な気持ちになると同時に、気付いたその瞬間から他人からの評価(この場合はキャリーケースのクソデカ音です)が怖くなって、でもそんな怖さを悟られまいと大股で歩いた。自分の矮小さがさらに際立つなと思ったそんな街。
去年買った牛柄のプリントTシャツに、汚さないよう細心の注意を払って履いているエアフォース1。最新のモノが溢れてる都心では、わたしのお気に入りだっていつもより彩度を失って見えて、またそれがさみしかった。
新宿という街へ行ったのは、友人と会うためだった。日本ではない国で知り合った彼女は、日本でない場所でとてもリラックスして見えて、そんな彼女が日本の真ん中でどんな顔をして生きているのか興味があった。約2年ぶりの再会。
彼女のフィルターを通して観光する新宿は、大変興味深い場所だった。
まずは家庭ゴミの出し方。この町では自宅前に適当な袋に入れて置いておくと勝手に回収してもらえるらしい。田舎育ちのわたしにとっては衝撃である。ゴミ袋買わなくていいんだ。ゴミ収集車の人は大変なのではないだろうか。カラスが荒らしちゃうんじゃないの?等々。彼女の案内で近くをブラブラ散歩したが、不思議と食い破られたゴミ袋は少ないし、街の雰囲気に不衛生な感じもない。それから、世界に誇る圧倒的な人口密度を感じない静かな街だなと思ったのを覚えている。
ここはベトナム系の人がいっぱい住んでる家だよ。この古めかしいアパートに住んでるおばあちゃんは、富裕層のご婦人みたいに品のいい人だよ。薔薇の咲いた庭を手入れしているおじいちゃんは、全身紋々が入っているのよ。そんな話をしながらだらだら歩く。自分とはまったく関係のない情報だが、無機質なイメージだった街に人の息遣いを感じ始めた。当たり前だがいろんな人がここで働いて、食事を摂って、風呂に入って布団で眠り、学校に通い、休日やバカンスを過ごしに来ているのである。想像の新宿から脱却して、マジもんの新宿をインプットできたのが嬉しかった。
次に圧倒されたのは、TOHOシネマズだ。(これは去年の夏の話なので、現在どうなっているかはわかりません。すみません。)
ぽっかり空いた灰色の広場。ゴジラもいるんだっけ?ゴジラなんか目に入らないほどの情報量だった。デートで映画を見にきたのであろう会社員風の男女のそばに地面にそのまま座り込むティーンエイジャー。その横にアルコールの缶と吸殻。壁際で熟睡している男性。ホームレス風の老人。ピリつくとか絡むとか、そういう空気は微塵も感じない。それぞれ相手が見えていないかのようにぶつかることなくそこにいる。そしてそれをスマートフォンで無遠慮に撮影している人までもがワンセットなのである。
TOHOシネマズへは来なければならない理由があって来た。(理由はここでは明記しません。)YouTubeやネット記事で、この広場がどういうところなのか、どんなことが起きているのかを調べてからやって来た。インタビュー記事、街録ch、無数にネット上に落ちているここで撮影されたショート動画。でんぐり返しに昏倒に青く染まった舌。その時点でもう衝撃だったのだが、実際にその場に立つのは訳が違った。助けてあげたいなんてことは言えない。財力も器もない。余計なお世話と思われることもあるだろう。この場所で過ごすことで命を繋いでいる子もいるだろう。
だから、わたしと同じ大人へ憤りを感じた。弱肉強食とか自己責任とか、そういうことじゃないでしょって。売ってたから買ったとか、マネタイズできるなとかそうじゃないだろって。彼らは小さい大人ではないんだよ。大人の背中を見てその振る舞いを吸収してこの後も生きていくのに、そんなんダメでしょって苦しくなった。と同時に、ここで生み出されるマネーによって助かる人がいるのも事実なわけで。まとまりはないが、頭がグルグル回るような、揺さぶられたなーと思う体験をここではした。
今回は疲れちゃったのでここまで。
またこの旅について思ったことがまとまったら、続きを同じタイトルで書きたいと思っています。