トイレの流儀

俗世と切り離された完全にプライベートな一人時間、それがトイレの中だ。この一畳ほどの空間は必ず人の目に触れないよう作られていて、柔らかい椅子なわけでもないのになぜかつい長居してしまう、そんな場所である。断言してもいいが、わたしはトイレの中で過ごす時間が好きだし尊いとすら思っている。まったり。


時たま自分のトイレの中での行動って世間とズレているのではないか?とソワソワすることがある。わたしはこうだけどみんなどーなの?!と聞けるようなライトなことから、文字にするのも抵抗を感じるようなことまで。今日はそのライトな方の話を書いてみたいと思う。


みなさん、トイレットペーパーってどれくらい使います?
夫に指摘されて初めておやおやと思ったのだが、どうやらわたしは人よりもトイレットペーパーの消費が激しいらしい。気になっていつも通り巻き取った後もう一度伸ばしてその長さを確認してみた。目測で130センチくらい。床から壁際の手すりの上部まで。なんの気なしにカラカラと引っ張り出した二枚重ねの可愛い花柄の帯は、わたしが思っていたよりはるかに長かったのだ。また別の機会にも伸ばして長さ確認。床から手すりの上部まで、前回とまったく同じ長さ。ひとメモリも違わないところでカットしたであろうトイレットペーパーをまたたたみ直して、職人かよとひとり笑った。


子供の頃わたしが住んでいた家は古くて寒くて、当然のごとく和式トイレだった。壁には水色のタイルが貼られていて、床は大小の丸っこい石のようなタイルがランダムに並んでいた。男性用の小便器と和式の便器が一畳半ほどの空間に配置されている。このトイレにはトイレットペーパーホルダーというものが存在しなかった。みなさんちり紙ってご存知だろうか?極薄のキッチンペーパーのような、極厚のティッシュのような、ちょっとごわついた手触りの紙。わたしは平成の始めの生まれだが、同世代の友人はこの紙の存在をあまり知らないんじゃないかと思う。このちり紙で用を足した後お尻をふきふきして一連の動作を終えるのだが、この紙の適正な使用枚数を両親から教わった覚えがない。なので、結構リッチに使っていた(と母に思われていた)んじゃないかな。今現在もそうだが、拭いた時に手が絶対に汚れない安心感のある厚みが欲しいのだ。それがトイレットペーパーなら130センチで、ちり紙なら7、8枚。他の家庭に比べてもしかするとトイレットペーパーの支出は多めなのかもしれないが、ここは譲れないし削ることのできないところなので夫にはそう伝えたところ彼は変な顔をして頷いた。


あのタイル張りの寒いトイレとセットで思い出す本がある。矢沢永吉の成りあがりという本があのトイレにはいつも置かれていた。これはおそらく父の趣味。小学生のわたしは、トイレで用を足すたびにこの本をちびちびと読み進めた。ナオンとコーマンでザギンでシースーみたいな、(幼いわたしには)よく意味がわからないが勢いとカッコ良さは伝わるその意気やよし!という本だった。30代のわたしが読むとまた違った感想になるのかな。父とは没交渉なので、彼の愛した本の情報があまりない。矢沢永吉と金庸くらいしか覚えていないので、この後の人生で摂取しておきたいなーなんて思っている。


20歳から数年間クラブにどハマりしていた時期があるのだが、クラブのトイレも個性豊かで面白かった。酔い潰れる女の子と念入りに口紅を塗り直す女の子、日本人、外国人、標準語に敬語に関西弁、お世辞にも綺麗とは言えない床に壁の落書き。友人との中身のない軽いやり取りをしながら、踊って崩れた髪を軽く直す。隣の女の子たちは、今夜何杯男性に奢ってもらったかでマウントを取り合っていて、それをいじわるな気持ちで聞く自分も同時に思い出す。いやな奴だなって思うけど、その延長に今のわたしがあるんだよね。いじわるはいまだに直っていない。
真っ赤な壁の狭いトイレが忘れられなかったので、自宅のトイレの壁紙も赤色にしてみた。これはすごく良いチョイスだったと思う。個性的だし、あのカオスな空間のエッセンスもありつつ寛げるわたしだけのトイレ、という感じがたまらなく好きだ。noteの更新も捗るというものである。


トイレの話は以上です。
もっと書けそうな気もするけどキリがないので。
好きだなー、トイレ。


いいなと思ったら応援しよう!