【生贄リボン】試し読みページ
pixivで連載した電子書籍『生贄リボン』の試し読みを用意しました。noteでは序章、一章を試し読みに掲載しています。現在pixivには三章まで掲載されています。(noteに掲載されているのも連載版のバージョンです。電子書籍版では修正がされています)
生贄リボン
著者 館山緑
表紙写真 松代守弘
kindleにて販売開始、kobo、BOOK☆WALKERにて販売
定価500円
楽天kobo
あらすじ
「八人の願いが叶うまじない」八方様の存在を土屋湖子が知ったのは、親族である土屋由可奈の三十三回忌。彼女の本に挟まった紙片に「ツチヤココ」と書かれていたのを見つけた時だった。
幽霊となって現れる由可奈。自分と由可奈の手首に現れた赤いリボン。由可奈の霊と共にかつて行われた八方様の秘密を探っていくが、見つけた参加者は次々に蜘蛛にまつわる奇妙な死を遂げていく。命が尽きる刻限までに湖子は真実に辿り着くことができるのか──
邪教に翻弄されるカウントダウンホラー。
序 箱の夢
箱が並べられている夢を何度も見る。
何度も見ては忘れ、見ては忘れを繰り返している夢だ。
箱は全部で八つ。黒い箱に赤いリボンが巻かれている。
一箱だけ妙に軽く、何が入っているのか解らないものがあるが、残りの七箱はそれなりに持ち重りのするものだ。多分軽い箱は空箱なのだろう。
今までは八つの箱を見たり触ったりしつつ、中身は何だろうかと考えているだけだった。いつも同じ夢なのだ。
しかし、今回は何も入っていないと思った箱に何か入っている感じがあった。
何となく嬉しくなり、そのリボンをほどこうとすると、何故か触っていない箱のリボンが勝手にほどけ、開いた。
その瞬間、妙に力がみなぎった気がしたが、今まで空だと思っていた箱のことが気にかかってしまい、どうしても開いた箱のことより気になってしまっていた。
夢の変化が何を示しているかは解らなかった。
ただ、起きると程なく忘れてしまう。
それはいつものことだった。
一 紙片の名
土屋本家の大座敷、滅多に見ないような袈裟を身にまとった住職が経を読むのを、百人近い参列者が居住まいを正して聞いている。土屋湖子は一番後ろの方に敷かれた座布団に座って、その有様を何となく観察していた。
本家に足を踏み入れたことはなかったが、それだけの人数を収容しても余裕のある座敷の広さを物珍しく楽しめる程度には他人事だった。
(何で私、呼ばれたんだろう)
そもそも湖子は一応遠縁でこそあるが、故人とほぼ何の関係もないのだ。土屋由可奈という、十七歳で死亡したその女性と面識どころか、彼女の死亡時にはまだ生まれてすらいない。湖子は本家とそこまで近い血縁ではない。いくら弔い上げで大がかりな法要とはいえ、呼ばれるほど親しい間柄ではない。
かといって遠縁を含めた一族が全員参列している訳でもないようだ。
さりげなく参列者を見回してみるが、制服姿の後ろ姿はひとつもない。一応湖子の家より本家と近い血縁の家には小中学生がいるはずだが、彼らの姿もない。
真比礼町に唯一ある高校、宣山高校の、特徴ある藍色の制服だけがフォーマルウェアの黒の中で浮いている。
この色を身にまとっているのは湖子と、遺影の中の土屋由可奈だけだ。
額縁の中で、どことなくおっとりとした雰囲気の少女が微笑んでいる。何となく奇妙な気分だった。きっと彼女も友達どころか逢ったことすらない遠縁が参列者に混ざっていることに閉口しているのではないだろうか。
(もっと前にいたらめちゃくちゃ目立つよこれ)
ただでさえ身長164センチの湖子は、親戚の女性の中では一番長身だ。何故呼ばれたのか解らないほど関係の薄い人間として参列しているのは肩身が狭い。
自分が座っているのが末席でよかったと心から思った。
湖子は時々足の指を動かしたり、腰の位置を変えたりしながら、読経が終わるのを待っていた。
読経に続いての法話が終わり、本家の当主夫婦が住職に挨拶をしているのが見えた。喪服を着ているので本家の面々が誰かは判別できる。
足の痺れを取ろうとマッサージしていると、隣りに座っていた母が手を貸してくれた。ありがたく手を取りよたよたと立ち上がる。
折詰が用意されているらしく、参列者が順に受け取って出ていく。父も挨拶できるタイミングを待っているらしく、人だかりの方にいた。
大多数の面々は湖子と同じくこの近隣に住んでいる。特に親しくなくても挨拶くらいはしたことがある。
人も少なくなってきたので、そろそろ自分達家族も外に出ることができるだろう。
(時間もまだ早いし、後で蝶紋まで買い物に出ようかな)
真比礼町は鄙びた観光地で、住民にとって駅前は決して便利ではない。普段の買い物も基本的に自動車移動だ。高校一年生の湖子が自分の買い物を楽しむためには、電車に乗っていくつか先の蝶紋駅まで出なくてはならないのだ。
「湖子、こっちに来なさい」
本家の当主夫妻と話していた父がこちらに戻ってくる。母と一緒にそちらへと向かうと、当主である土屋敦彦が湖子に笑顔を向けた。
当主夫婦は近くで見るとどちらも端正な印象で、喪服を着ていると時代物のドラマでも見ているような気分になった。遺影の由可奈とはそれほど似ていない。
一応湖子の曽祖父が敦彦の祖父と兄弟らしいというのを聞いたことがあるが、彼らの格調高さは全く自分の直系親族からは感じなかった。
「湖子ちゃん、今日はお疲れ様」
「いえ、そんな……」
ただ座っていただけで何の役にも立ってはいない。
何となく間の悪い思いでぺこりと頭を下げた。
わざわざ呼ばれたのは何故だろう。片付けの手伝いだろうか。
「今日は妹の……由可奈の弔い上げだが、さすがに三十三回忌だ。生前の友達に参列してもらうこともできなかった」
故人は死亡時には高校生だった。それから三十二年が経っている。既にこの地を離れたりしている人間も多いのだろう。
「せめて宣山の生徒でもある君が友達代わりに偲んでやってくれれば、少しは由可奈の心も晴れるんじゃないかと思ってね。何とかお願いできないだろうか。友達の部屋で暇をつぶすくらいのつもりで構わないんだ」
答えに詰まって両親に視線を投げると、父も母も小さくうなずき返してくる。
本家と分家の立場は全く違う。しかも湖子の家は本家とそこまで血の繋がりが濃くはない。その分立場は低いのだ。失礼があってはならないというのは叩き込まれている。
この後も別に用事がある訳でもない。見知らぬ相手の法事に出た居心地の悪さが多少減るだろう。
「解りました。お邪魔します」
ほっとしたように笑う敦彦を見て、彼女はとても愛されていたのだなと何となく微笑ましくなった。
土屋由可奈の部屋は生前の状態を維持しているらしい。
まめに掃除や換気もされているらしく、人が生活している気配が消えてさえいなければ、今もここで誰かが暮らしているのではないかと錯覚しそうだった。
「ごゆっくりね。トイレはドアを開けて左に向かって突き当たりよ」
当主夫人の和佳子が紅茶とケーキを置いて立ち去った後、湖子は溜息を漏らした。
クロゼット、押し入れの付いた八畳の部屋は本棚やベッド、机があってもかなり広く見える。淡いピンクベージュのカーテンや、ベッドに置かれている値段の高そうなテディベアが可愛らしい印象だった。
窓から見える庭には百日紅の樹が植わっており、花を咲かせているのが見える。そのせいもあって可愛らしくて過ごしやすそうな部屋に思えた。
一瞥した時にはそれほど古めかしい印象はないが、本棚に少し並んでいる漫画などはかなり古い絵柄や装丁のようだ。それ以外の本でもややカバーの黄ばんでいるものが多かった。
(三十二年って、やっぱり昔なんだな)
そもそも由可奈は両親よりもずっと年長で、生きていれば五十歳近い。同級生達は孫が生まれていても不思議ではない年頃だが、それでもこの場所に残っている気配は自分とそれほど年齢の離れていない少女のものだと伝わってくる。
不思議な気分のまま本棚を見ていると、卒業アルバムが三冊あった。
一冊は自分も卒業した町立小学校のものだ。そして残りの二冊を確認すると、宣山学園中等部、高等部のものだった。
「……あれ?」
由可奈の享年は十六歳。高校在学中に死亡している。『卒業』しているはずがない。
何となく気になって高等部の方の卒業アルバムを開いてみると、3年1組のクラス写真の左上に楕円形に貼り付けられた顔写真があることに気が付いた。
宣山学園のクラス分けは独特な方式になっている。中学が一学年1クラス、高校が一学年2クラスあるが、高校三年生から1組、2組、二年生は3組、4組と続き、中学一年生の9組で終わる。湖子のクラスは1年6組だが、高校一年に4組までは存在しない。
1組と書かれている時点で高校三年生だと知れる方式になっているのだ。
ややあって「ありものの写真をここに合成したのかもしれない」と思い至る。
由可奈の死が不祥事などと関係ないなら、頼んで卒業アルバムに写真を載せてもらうこともできたかもしれない。こういう形で卒業しなくてもアルバムに載せてもらえば、敦彦を始め由可奈の家族も多少は心が慰められたに違いない。
湖子は一時間ほどの間、卒業アルバムを棚に戻し、ありがたくケーキと紅茶を食べることにした。自分の分の折詰を母から受け取ってくればよかったと後悔する程度には空腹になっている。
真比礼駅から数駅先の、烟山駅近くにある洋菓子店のケーキだ。ケーキ屋がそれほど多い訳ではないので、この近隣ではおいしいケーキの店もある程度限られてくる。ごくたまに進物で贈られてくるか、たまに母が思い立った時に買ってくるくらいで、なかなか食べられない。
この奇妙な状況に戸惑っていた気分が、丁寧に淹れられた紅茶とナッツのケーキですっかり消し飛んでしまい、ケーキを食べきってしまった後で眼に入った可愛らしい背表紙の本に手を伸ばして開いた。海外の文学作品らしいが湖子の知らない作家だ。
ページの合間から小さな白い紙片がはらりと落ちてくる。5センチ強四方の紙だ。
「栞……かな」
湖子も時々そのへんの紙を適当に栞代わりにしている。由可奈も同じことをしたのだろう。
床に手を伸ばして紙片を拾う。
何か書かれているのが見えた瞬間、湖子の動きは止まった。
ツチヤココ
息を呑む。
何故、三十二年前に死んだ少女の部屋に残された本に、湖子の名前が記された紙が挟まれているのか。半ばパニック状態で土屋本家、それ以外の分家の面々の名を必死で思い起こした。
生きていれば五十歳近い由可奈が知ることのできる世代に、ココという名か、そうでなくても近い名前の一族はいるだろうか。しかし、そんな名の女性は一人もいないことはすぐ思い出せた。
一族の大多数はこの近隣に住んでいる。もちろん学業、仕事、結婚などで真比礼近辺から離れた人間はいるが、この地を離れて長い相手でなければ名前くらいは憶えている。
他にもココが名前ではなく「此処」を意味する可能性もなくはない。違和感はあるが、無理に信じようと思えばできなくはない。
紙片を本の間に挟んで、このまま元の場所に戻すべきだ。
この奇妙な状況に頭がついていかず、混乱している湖子は、機械的に本を棚の空いている部分へと差し込もうとする。
その瞬間、眼窩、耳腔を衝撃が抜けた──ような気がした。
◇ ◆ ◇
四角く切り取られた木槿色がいくつも並んでいる。
学校の窓から見える夕空の色らしいことに、ややあって湖子は気付いた。どうやら教室の中らしい。
「これで八人揃ったね」
活発で、気の強そうな印象の少女の声がどこからか聞こえる。
彼女の声を受けて、何人かの男女が視線を向ける。『自分』も同じようにそうしたらしい。
「じゃ、始めようか」
その語調は特別な印象はなく、むしろ日常的で軽いものだった。
しかし『自分』は何となく不安で、このまま『友達』の手を引いて帰ってしまいたくなっていた。
(何だろう……何だか……)
この後起こってはならないことが起こるような気がしてならなかった。『自分』が内心思っているように、早々に教室から出ていってほしかったが、移動せずに話の続きを待っている。
『彼女』の取り出した鋏が夕陽を反射して輝いたのを見た──
◇ ◆ ◇
突然視界が切り替わり、手に持った本と本棚が見えた。
先刻までの『夕方の教室』は何だったのだろう。
登場人物としての自分と見ている自分が分断されている夢と近い印象だが、まるでその場にいたかのような気分が抜けていない。
湖子の名を書かれた紙片を見たショックで幻覚でも見たのだろうか。
(こういうの、白昼夢っていうんだっけ)
本を手に持ったまま、ぺたりと座り込んでしまう。
ツチヤココ。自分の名前。木槿色の空。友達。自分。『これで八人揃ったね』『じゃ、始めようか』輝く鋏。激しい眩暈のせいで脳裏をぐちゃぐちゃにかき回されているような気分だった。
まともにものを考えられる余裕はなかったが、本家の屋敷、いくら面識がないとはいえ、一族の少女を偲んでやってくれと通された部屋でパニックに陥ることはできない。
湖子はぬるくなった紅茶を一気に飲み干し、ケーキの屑などがないかを確認して立ち上がった。
しばらく考えた後、スマートフォンのカメラで本の表紙を撮影し、挟まれていた紙片を生徒手帳の合間に移動させる。
本来ならこれも撮影に留めておき、持ち出さない方がいいのだろうが、本家に上がり込む機会も多分ない。それに万が一この紙を残しておいて本家の誰かに発見された場合、かなり面倒なことになりそうだ。
罪悪感はあるが持ち帰ることにした。
食器を軽く揃えてから部屋を出る。
法事の行われた大座敷から近い位置にあるリビングの扉をノックすると、和佳子が「あらあら」と声を漏らしながら扉を開けてくれる。
「そろそろお暇します。お皿、そのままですみません」
「そんな、いいのよ。こちらこそ、私達の我が儘で湖子ちゃんに時間を取ってもらってごめんなさいね」
どう返答したら気の利いた言葉になるのか解らないまま、何とか言葉を絞り出す。
「由可奈さんがどんな人なのか知って……嬉しかったです。本棚の本が素敵な本ばかりで、お菓子をいただいたり本棚見たりしてました。多分楽しかったです」
紙片や白昼夢らしきものについては言わず、ぺこりと頭を下げる。
「由可奈さんの本が気に入ったなら、また読みに来てちょうだいね」
「はい」
もちろんリップサービスだろうが、それでも少し友達の家に遊びに来たような気分が湧いてきて、湖子は無器用に照れ笑いした。
法事の最中には帰宅してからどこかへ出かけようかと考えていたが、とてもそんな気になれなかった。何かする気力も出ず、ぐったりと自室で過ごした。
食事も結局自分の分の折詰を食べたきりだ。
思った以上に消耗していたことに気付き、夜も入浴して早々に眠ってしまうことにした。
起きたら多少は楽になっているだろうか。
花が咲き乱れる、その百日紅の樹の下に少しだけ見憶えがあった。
あの時は窓越しにぼんやりと見たきりだったが、由可奈の部屋から覗き見た本家の庭なのは間違いなさそうだ。
宣山学園の制服を着た、ほっそりとした少女が立っている。学年章の色が緑色なので高校三年生だろうかと推測するが、すぐに否定する。
学年章はそれぞれの年齢で色が違っている。本来なら緑は高校三年生の色で、湖子の学年は橙色だ。色だけ見れば湖子より二学年上のはずだだが『そのはず』はない。
(違う……この人は『由可奈さん』だ)
真ん中で分けた艷やかな黒髪が肩の下で揃えられている。眼はぱっちりと丸くて可愛らしい。身長164センチの湖子よりも何センチか低いが、小柄というほどではない。遺影で見たより少しだけ大人びているようだ。
何故死んだ女性が眼の前にいるのか。こうして話しかけることができるのか。そう考えるべきだったはずだが、彼女のふんわりとやさしい気配に流されて、おずおずと湖子は話しかける。
「あ、あの」
『由可奈さん』は悲しげに微笑む。
淡い色の唇が開いた。
ごめんなさい
声は聞こえなかった。
それでも彼女の悲しそうな表情に眼が釘付けになったまま意識は途切れた。
湖子が瞼を開いた時、疲れが取れていないような感覚と憂鬱さが混ざりあった体調のせいで、数分ほど起き上がれずにいた。
本来出席する必要のなかった法事に呼ばれ、面識もない女性の部屋で過ごし、自分の名前を書いた紙片を見つけた。その後の白昼夢もさっきまで見ていた夢も、あまりにも奇妙だ。
昨日のことがあってから、由可奈について思い悩んでいるのだろうか。
(こういうの、よくないな)
今日は日曜だ。昨日は出かけられなかったが、何か食べて元気を取り戻したら午後には出かけてもいいかもしれない。
ベッドに手をついて、一気に起き上がった。
左手首に鮮血のような赤い色が見え、慌ててその色が見えた部分を確認する。
「何、これ」
血ではなかった。左手首に赤いリボンのようなものが巻き付いている。大体幅1・5センチ弱の美しいリボンだ。手首から10センチほど下まで垂れている。
いつからこんなものがあったのだろう。少なくとも昨夜寝る前に風呂に入った時にはなかったことは間違いないが、いつ巻かれたのかは全く記憶になかった。
慌ててリボンをほどこうと右手を伸ばした時、あることに気付いた。
リボンの結び目はなかった。輪ゴムの一部がぐんにゃりと伸びて取っ手になっているような感じで、外す場所がどこにもない。それだけではない。リボンの端が透き通っているのが見えるのだ。
驚きと気味の悪さのあまり、両手がびくんと震えた。
リボンは垂れた先端からそのまま薄れて消えていこうとしている。咄嗟に左の手首を握った瞬間、とんでもないことに気付いた。
摑んだ掌にも手首の肌にも、布の感触が全く感じられないのだ。慌てて右手を離す。
「何で」
赤いリボンは刻々と薄れていくところだった。
今も布地の触感は一切ない。
湖子は茫然とリボンが消えていく有様を見つめていた。
リボンの痕跡など全くない、なめらかな肌を五分以上は睨んでいただろうか。
見えなくなってしまった後には、ただの幻覚でしかないような気がする。
ざわりと鳥肌が立った。
これ以上考えない方がいい。
そんな危機感に急かされて部屋から飛び出す。
(そうだ。朝ごはん食べよう。何か作ったりとかしよう)
この前母が買ってきてくれたホットケーキミックスがまだ残っているはずだ。ホットケーキと牛乳の朝食にしよう。その後どうでもいいテレビ番組を家族と一緒に観て、昼になったらみんなで昼食を摂るのだ。
無理に頭を切り替え、湖子は歩き出した。
ありがたいことにホットケーキを作ったり、家族と過ごしている間に気も晴れてきた。
昨日のことが心に残っていたせいで、夢から醒めきっていなかったのだ。このまま気晴らしに蝶紋駅に出て買い物でもしよう。
そんなことを考えながらリビングのソファに転がっていると、インターホンが鳴った。
「はーい」
宅配便の配達などだろうか。
両親も祖母もまだキッチンにいる。リビングにいる自分の方が近い。湖子はソファから降りて小走りで玄関へ向かい、扉を開けた。
「──湖子か」
聞き覚えのない低い声がした。
段ボール箱を持った青年が少し困った様子で立っている。自分と10センチほどしか違わないので、大体身長170センチ台半ばといったところか。知らない相手だと思ったが、ややあってうっすらと見憶えがあることに気付いた。
「あ、もしかしたら本家の瑞生さん」
「何だ『もしかしたら』というのは」
うんざりしたように『本家の瑞生さん』こと、土屋瑞生が顔をしかめる。
瑞生とまともに話したことがあるのは小学生の頃くらいだ。校区が同じなので三学年上の瑞生とは三年間同じ小学校に通っている。彼が宣山学園の中等部に入学し、その後蝶紋市の高校を受験、そのまま東京の大学に行ってしまったので、それ以降はほとんど言葉を交わしていない。せいぜい道を歩いている時に見かけた程度だ。
そして昨日の法事にも瑞生の姿はなかったことを思い出す。今思い起こすと瑞生の兄である泰樹はいたような気がしなくもない。
「今日は父に頼まれておまえに届け物に来たんだ。おまえが由可奈叔母の本を読んで楽しそうにしていたと母から聞いて、父が渡してやってくれと」
間抜けたやりとりのせいか不機嫌そうなまま瑞生が段ボール箱を差し出す。
「本家様が?」
段ボールを受け取ると多少持ち重りがする。
中を覗くと数冊の本が入っていた。
お礼を言おうと口を開けた時、突然左の手首を摑まれた。
バランスを崩して落としそうになった箱を瑞生が支える。
「何でこんなものが巻かれてる?」
父親とよく似ている瑞生の端正な顔は強張り、あからさまに苛立っている。
戸惑っている湖子の手から片手で一度段ボール箱を奪い返すが、もう片方の手は未だに左手首を摑んだままだ。
幻覚だと思いたかった赤いリボンがそこにあった。
叫び出しそうになっていたが、声を聞きつけて父母が出てくる。
「瑞生さん、わざわざおいでいただいたんですか」
「よかったら中にどうぞ」
決して広くはない玄関口がいきなり狭苦しくなった。
「え、えっ?」
混乱しているうちにいつの間にか部屋にいて、瑞生と向かい合ってテーブルの前に呆然と座っていた。肝心の段ボール箱は湖子の隣に置かれている。
「えーと、その。私どうしたらいいんでしょう」
「もう少ししたらおまえの家族の誰かがお茶を持ってくるだろうから、それまでに少し落ち着いておいてくれ。俺も分家に顔を出したらこうなることを忘れてた。お茶が来るまでに頭を冷やす」
「そうですか」
頓珍漢な相槌を打ちながら、それなりに気を楽にしようと深呼吸をしてみる。
馬鹿馬鹿しいほどの慌ただしさのせいか、あのリボンへの恐怖が今は薄らいでいる。黙ったまま息を整えているうちに、多少は平静になってきた。
瑞生の言う通り、母が二人分のお茶とお菓子を持って部屋にやってくる。
「湖子ちゃん、粗相のないようにね」
ぶんぶんと首を振ると、母はまだ心配そうではあったが部屋を退出していく。
落ち着いたかどうか確認するまで話しかけないつもりなのだろう。瑞生は静かにお茶を飲んでいた。
瑞生が大学生になる前、路上ですれ違った時に挨拶したのが最後のはずだ。顔を合わせる機会の多かった小学生時代にも、それほど親しく話していた訳ではない。彼にとっても別に楽しい時間ではないはずだ。
さりげなく左手首に視線をやった。
今もまだ手首には鮮やかな赤いリボンが結ばれている。消えていく様子はないが、やや透けている。
「瑞生さんにはこれ、見えるんですか!?」
「見えるけど。それが何なのか訊いてもいいか? その……触れないリボン」
本来はその疑問に対して準備をしておくべきだった。しかし、これほど答えに詰まる問いもない。湖子が『これ』を見たのは今朝が初めて、しかもすぐ消えてしまったのだ。
湖子は瞼を伏せ、何とか思考をまとめようとする。
「これが見えたの、今朝起きた時が初めてなんです。でもすぐ消えちゃって……ただ、昨日からもう何だかよく解んない……紙とか持ってきちゃったから由可奈さんが夢に出てきたりとかしたのかも」
最後の方は自分でも何を言っているのか解らなくなって完全に混乱していた。
瑞生は困ったように湖子を見ていたが、やがて溜息をつく。
「自分でまとめようとしなくていい。俺が質問するからそれに答えてくれ」
感情があまり伝わってこない淡々とした口調でそう告げられ、小さくうなずいた。
「由可奈叔母の夢を見たのか?」
「はい」
「どんな夢だ?」
少し首を傾げ、夢の内容を思い出す。
「謝られたんです。由可奈さんの部屋の窓から見える庭で」
「謝られなければならないような心当たりは?」
あの紙片を勝手に持ち出したことを考えれば、むしろ謝れと夢枕に立たれる可能性の方がありそうだった。
「何か心当たりがあるんだな」
間の悪そうな表情になったのを見咎められたのか、容赦なく言葉が飛んでくる。
「あの……怒られませんか?」
「別に咎めたりしないから言ってみろ。部屋にあったものを壊しでもしたのか」
「さすがにそこまでは」
このままではとんでもない粗忽者という前提ができあがってしまいそうだ。
湖子はクローゼットの扉を開け、制服の胸ポケットから生徒手帳を取り出すと、扉を締めて戻ってくる。
「怒らないでくださいね」
「約束する」
瑞生はかなりうんざりした様子でうなずいてみせた。
生徒手帳に挟んだ例の紙を出し、瑞生に差し出す。
「これが由可奈さんの本の一冊に挟まっていたんです」
瑞生はしばらくの間、紙片を黙って睨んでいた。
かすかに伏せられた切れ長の眼が鋭い印象で、何となく見惚れてしまう。
瑞生が紙をひっくり返す。
裏面にも何か書かれているのに今やっと気が付いた。
「嘘……」
ツチヤユカナ
湖子の名前の裏には彼女の名前が書かれていたのだ。
ややあって瑞生が顔を上げた。
「これが、由可奈叔母の本に?」
「はい。何で私の名前が書かれてる紙なんて入ってるのか解らなかったけど、怖くて。このまま置いといたら駄目なんじゃないかって」
「俺だって面識もない人間の部屋で自分の名前を書いた紙を見つけたら怖いさ。まして死人の部屋にあれば尚更だ。当然の感情だろう」
「私、さっき見るまで由可奈さんの名前が書かれていたのに気付いてませんでした。裏、書かれてたんですね」
「動転してたんだろう。それは仕方ない。あと、夢の中で見た由可奈叔母について憶えていることを全部話して」
ごく冷静にそう告げられる。
「言葉を聞いたのが『ごめんなさい』だけで、大したことは憶えてないんですけど」
「由可奈叔母がどういう外見だったか憶えているか?」
「うーん、ほんとに些細なことしか憶えてないんですけど」
そう前置きして、由可奈の外見について説明する。
遺影よりはやや大人っぽい印象だったこと。身長は自分より数センチ小さかったこと。髪は真ん中で分け、肩の下くらいで揃えてあったこと。色白で唇の色も淡い印象だったこと。言葉をかけられはしたものの声は聞こえなかったこと。制服を着ており、学年章は緑色だったこと。
そこまで話すと瑞生は真剣な表情になった。
「おまえが見たのは、ただの夢じゃないかもしれない」
「どういうことですか」
「由可奈叔母のことは俺も何度か家で見たことがある」
「瑞生さん、見えるんですか?」
「たまに見えるだけだけど」
幽霊を見る能力があるからこそ、瑞生は自分の見た叔母の姿とどのくらい一致しているかを確認したのだろう。
「おまえの見た様子は俺が見たのと全く同じ姿だ。ちなみに学年章のローテーションも確かめてある。由可奈叔母の時の学年章は緑なんだ」
信じてもらえない覚悟はしていたが、もっと詳しい情報が出されてくることは予想していなかった。
「遺影では学年章まで写ってないから、おまえが学年章の色を見られるはずがない」
「そう、ですよね」
湖子の座っていたのは後ろだったので、どのみち遺影をはっきりと見てはいなかった。そして卒業アルバムに写っていたのも、楕円形に写真が貼り付けられていて、学年章の付けられている下襟までは見えていなかったかもしれない。
「とりあえず手首のそれの話に戻ろう。さっき摑んだ時に布の感触がなかった」
「見えるだけみたいなんです。起きて気が付いてから何十秒かくらいで消えちゃって、まさか瑞生さんの前でまた見えるなんて……何でなんだろう」
「それは俺にも解らないな。それより由可奈叔母がおまえに謝っていたというのが気になる。何か、すごくよくないことがおまえに起こる可能性があるんじゃないかと思ってる」
「どうして」
すごくよくないこととまで言われると余計に怖くなってくる。
「叔母の死因は学校帰りに巨大な蜘蛛に嚙まれたせいらしい」
「蜘蛛!?」
海外から入ってきたセアカゴケグモについては聞いたことがあるが、確か日本での死亡例はないはずだ。
「セアカゴケグモですか?」
「それも確認してみたけど、叔母の死は1987年。セアカゴケグモが発見されたのは1995年だ。それに、一緒にいた友人が『掌より大きかった』と言っていたらしいからサイズが違う。セアカゴケグモはせいぜい体長1センチくらい。脚を含めても2、3センチだろう」
「全然違いますね」
「本州にいる蜘蛛ならアシダカグモが大きいけど、このへんには棲息してない。そもそもアシダカグモは人間を襲ったりしない」
聞けば聞くほど混乱してきそうな話だった。
「その蜘蛛はどうなったんですか?」
「まだ携帯電話が普及していなかった時期だから、友人が公衆電話に走って警察を呼びに行って、戻ってきたらいなくなっていたらしい」
だとしたら、戻ってくるまで数分は由可奈一人だっただろう。
偶然誰か通りでもしない限り、状況は闇の中だ。
「嚙み跡や糸が首に残されていたから、多少は調べたらしいけど、結局よく解らなかった」
要するに、この近隣には棲息していないような謎の大蜘蛛に嚙まれて死んだことしか解らないままなのだ。
「でも、それと私に『すごくよくないこと』が起こるのと、どう繋がるんですか?」
瑞生は何か考えている様子でしばらく湖子のことを見ていたが、やがて口を開く。
「叔母の幽霊は母や祖父母、家を出た兄には見えなかったが、父や俺は時々見た。叔母が俺達に話しかけてくることは一度もなかったし、そもそも気づきもしなかったのに、おまえには──謝った。叔母はおまえの見つけたこの紙について謝ったんじゃないか?」
湖子は息を呑んだ。
瑞生の表情は憂鬱そうにすら見える。
「死んだ人間に謝られなければならないような夢を見て、しかもその翌日には手首にはそんなものが巻き付いている。関係があるんじゃないかと思ってる」
「このリボン、が」
今のところは瑞生の言葉を否定できる根拠は何もなかった。
「それが何なのか解らないが、何か、変なことが起こってるのは間違いないと思う。叔母の幽霊が関わっているなら放ってもおけない。何かあったら俺に連絡してくれ」
「え、でも。連絡先知りませんけど」
そもそも瑞生どころか本家の固定電話の番号すら知らないのだ。両親に訊けば解るだろうか。
戸惑っていると瑞生がポケットからスマートフォンを取り出す。湖子も慌てて立ち上がり、デスクに置いてあったスマートフォンを持ってサイドテーブルへと戻った。
あまり使っていないメッセンジャーアプリで連絡先を交換する。多分家族に言えば「どんなことがあっても粗忽がないように」ときつく訓告されるだろう。半ば閉口してはいたが、訳の解らない状態を聞いてくれる人がいるというのはありがたい。
少しだけ、肩の力が抜けた気がする。
「由可奈さん、何で謝ってたんでしょうね……」
「それは今考えても仕方ないだろう。また由可奈叔母の夢を見るなり、何か他のことが起こる時まで判断材料はないんだ」
「でも」
「気になるなら、暇な時にでも持ってきた本を読んでみたらいい。叔母の人となりの参考になるかもしれない」
そう言うと、瑞生は自分の側に置いた段ボール箱を湖子の方へ寄せてくる。覗き込むと紙片が挟まれていたあの本も入っていた。
本を手に取り、紙片が挟まっていたあたりのページを開く。
「この本です。正確じゃないんですけど、大体このあたりのページに紙が」
「見せて」
瑞生に本を渡すとその前後のページ、表紙や奥付を含めて確認していた。その後本を返してくる。
「多分、由可奈叔母の亡くなる直前に読んでいた本だろうと思う。発行されたのが1987年の八月だ」
「栞を兼ねて挟んでたのかな」
「かもしれないな」
こうして見るとどの本も可愛らしい装丁で、面白そうな本に見える。もし生きている由可奈が自分の知人なら、趣味のいい、可愛らしい女性だと思ったに違いない。
こんなきっかけでなかったら、友達になりたいと思っただろう。
「貸していただいた本、読んでみます」
元々湖子は読書好きな方だ。今日も服や文具なども見るつもりだったが、間違いなく本屋にも行っただろう。真比礼町には本屋が一件もない。町立図書館もない。新しい本が欲しければ出かけた時に買うしかないのだ。
「父は変死した妹のことをずっと不憫に思っているんだ。みんなの可愛がっていた末っ子が、謎の大蜘蛛に嚙まれて死んだなんて、まあ受け容れにくいだろうさ」
「私なら一生無理かも」
「でも、それをおまえが同情したりする必要なんてないんだ。こんな状況になったのは、おまえを弔い上げに呼んだ父の責任だからな。何かあったら俺に連絡するといい」
「うちに大蜘蛛が出たら瑞生さんに連絡していいですか」
「俺が着く前に嚙まれて死ぬだろ」
「あんまり死にたくはないんで何とか自分で戦ってみます」
瑞生はかすかに苦い笑みを浮かべる。
「おまえが落ち着いてるようでよかったよ」
「落ち着いてるってほどじゃないんです。由可奈さんのことも、蜘蛛のことも、よく解らないから戸惑ってる感じです。ただ、これは怖いです。すごく」
湖子が手首を上げて赤いリボンを示してみせると、瑞生の笑みは消えた。
「由可奈さん、別に亡くなる時にリボンが巻き付いてたとか手首が真っ赤になるような切れ方をしたりとか──わっ、考えたくないけど、そういう訳じゃないんですよね」
「巻き付いてたのは頭に、大量の蜘蛛の糸、だな」
咄嗟に自分の首を掌で乱暴にこするが、もちろんそんなものは感じられない。瑞生に視線を投げると軽くうなずかれる。ありがたいことに見えていないらしい。
「結局これ、何なんでしょう。何でこんなのが見えるんだろう」
「しばらくは他の誰かに見えているのかいないのか、意識してるくらいしかできないだろうな」
瑞生の指摘はもっともだった。
お茶とお菓子を食べ終えてから、瑞生は帰っていった。
「湖子ちゃん、瑞生さんに失礼はなかった?」
「多分」
「お持ちいただいた箱は何だったんだい?」
「由可奈さんの部屋にあった本。本家様が私に読んでほしいって」
「ちゃんとお読みよ。失礼のないようにね」
祖母や母に訊かれはしたものの、その程度にしか説明はできなかった。
訪れたのが土屋本家と関係ない青年ならもっと根掘り葉掘り訊かれただろうが、なまじ瑞生が本家の人間なのであからさまな遠慮がある。敦彦が本を届けさせた理由についても深くは詮索してこない。父は何も訊いてこないが、訪問者が瑞生でなければ祖母や母ほどでなくても多少の探りは入れてきただろう。
結局、外出するのはやめて家で本を読んで過ごすことにした。
もし外で大蜘蛛がいきなり出没したら対処できる自信がない。自宅ならそのサイズの蜘蛛にぶつけることができるものもあるだろう。
間違って借りた本をぶつけたりしないように、納戸に新聞紙と共に片付けられていた古い通販カタログを引っ張り出してきて室内に用意しておく。これなら重さも大きさもかなりある。掌サイズの生き物にぶつけることはできるだろう。
奇妙な気分だった。
本当はもっと脅えたりするべきなのだろうが、瑞生と話したせいか生々しい恐怖はなく、ただ戸惑いだけが心にわだかまる。
眠る前まで手首のリボンや蜘蛛の存在を意識しながら生活していたが、リボンは見えたり見えなかったり、蜘蛛はそもそも現れることはなかった。
何となく拍子抜けしながらその日は早めに眠りについた。
(二章以降はpixivでお読みください)