飼育小屋のゴミで肉 前編
『あの事件』が起こる前徴を当時のわたし、数藤(すどう)桐子(きりこ)は感じ取ることができなかった――のだと思っていた。
一応は全国のニュースで報道されて、話題にもなったはずなのに、小学生数人が失踪したという事件の、被害者でこそなくても同じ学校に通っていた身としては少しばかりいたたまれなかった。あの事件が起こる前には全く気づいていなかったし、事件後には行方不明者の担任が私の父の妹、同居していた叔母だったことで数藤家は大変なことになっていたから、それについて思い出している余裕はなかったのだ。
あの頃感じていたのは何人もが行方不明になる前徴ではなく、匂いだ。学校のそこかしこで、一ヶ月くらい前から感じていたわずかな匂い。
一番近いのは、腐臭だったと思う。でも、何が腐っているのかはっきり解るほどには強くはない。それがふとした時にどこから漂ってくるのか気にしていただけだった。
匂いの謎については、夏休み前に事件が起こり、その後卒業するまでの数ヶ月間、結局思い出すこともなかった。
数藤家にとってあの頃は、行方不明になった男女取り混ぜ五人の生徒達の担任だった、同居の憲子(のりこ)叔母がどんどん憔悴していき家族もそのケアに大わらわで、しかもこの六辻(むつじ)町を出るために、わたしも急遽県庁所在地の私立中学を受験することになり、家の外についてまともに把握していなかったのだ。
もちろん叔母もわたしに状況を知らせないようにしていたのだろう。そのおかげで一応差し支えることなく受験勉強に専念できていた。
ただ、五人の生徒達が発見されることなく、精神的に消耗する叔母を父母と共に支えながら、ひたすら勉強していた私は、全員一度は同じクラスになったことがある面々が消えたのをただ居心地悪く思いながらも卒業を迎え、自分一人だけ私立中学に電車で通うことになった。
正直に言えばほっとしていた。
その後、夏休みの間に県庁所在地の分譲マンションへと引っ越すことになり、この町から離れてしまったので、その奇妙な匂いについて思い出すことはなかった。
叔母はその後、わたしが中学二年になる直前の春休みにそれまで休職していた教師を辞め、夏休みに入る直前に一通の手紙を残して姿を消してしまったのだ。
江原(えばら)さん
栗木(くりき)さん
佐藤(さとう)さん
津田(つだ)さん
野村(のむら)さん
彼らがいなくなったあの日から、私はずっと
忘れたことはありませんでした。
ほんの少しでもみんなを助けられる可能性が
あるのなら、助けに行きます。
兄さん、姉さん、桐子ちゃん、もし家の方へ
私に伝言があったら連絡ください。
よろしくお願いします。
憲子
これが叔母の残した手紙だ。
この五人は言うまでもなく失踪した五人の名前だ。
『江原さん』は江原大輝(たいき)。
『栗木さん』は栗木萌(もえ)。
『佐藤さん』は佐藤琴音(ことね)。
『津田さん』は津田健太(けんた)。
『野村さん』は野村亮(りょう)。
全員が小学校六年の時に隣のクラス――つまり叔母の教え子だった生徒だ。一学年二クラスしかないし、全員一度は同じクラスになったことがあるので憶えていた。
その頃精神を患い、友人の店でアルバイトをしながらリハビリしていた叔母は、何らかの理由で彼らを助けに行こうと思ったものらしかった。「もし家の方へ私に伝言があったら連絡ください」という文面は、何らかの理由や方法で彼らが連絡を取ってきたらという意味だったのだろう。
でも、彼らの誰かがうちに連絡してくることはなく、叔母の失踪時にコンタクトを取った故郷の人達にも全く心当たりはなさそうだった。
三、四年生の時に同じクラスで、何度か遊びにも行ったことのある佐藤琴音の母は、叔母がこんな形で行方不明になったことを聞いて涙ぐみ、娘のためにこんな思いまで抱えさせてしまい申し訳ないと謝っていたほどだ。
その後叔母が見つかることもなく、彼らの誰かがうちに連絡をしてくることもなく夏が過ぎ、時間が経った。
六辻町のことも、六辻小学校のことも、憲子叔母のことも、数藤家で語られることはなくなった。父や母がどう思っていたのか知らないけれど、少なくとも、わたしにとってそれらは全て、痛みに満ちた欠片だったのだ。
あのまま系列の高校に持ち上がりで入学し、全てを狂わせた事件のことも思い出さない日が増え、叔母が姿を消した夏がまた訪れた頃、わたしは数年ぶりに『数藤先生』という呼びかけを聞くことになった。
「数藤先生――じゃ、なくて。もしかして数藤桐子?」
電車の中。そう呼びかけてきた、中背で痩せた彼に心当たりはほとんどなかった。
ただ『数藤先生』というキーワードとわたしを結ぶ人間は故郷にしかいない。有り得そうな相手は多くない。
「六辻小学校関係者?」
「憶えてないのか? 一年から四年まで一緒のクラスの千倉(ちくら)曜平(ようへい)」
そう言って彼、千倉曜平が笑顔を見せた時、内心驚いていた。
彼のことを忘れていた訳ではないし、面影もそれなりにあるけれど、当時の千倉は声変わりもしておらず、小柄で、顔の印象もすごく子供っぼい感じだった。現時点の彼がそれなりに垢抜けた、美男子とまでいかなくても、充分感じのいい外見になっているのと、すぐには結びつかなかったのだ。
「ごめん。それなりにまともに育ってたから本人だとは気づかなかった」
「ひでえ」
「だってさ、あの頃の千倉ってクラスの女子に柴犬系男子一位とか言われてたよね。人類らしき男に育つなんて考えたこともなかった」
「ますますひでえ。何だよ人類らしき男って」
わたしの知っていた千倉曜平は、どちらかと言えば元気で明るく、特に恋愛対象にされたりはしなかったけれど、男女問わず好かれるタイプの少年だった。今も彼は明るく人懐っこい印象だけれど、背が伸びたせいかもう少し大人っぽく見えていた。
「わたしのことは見分け、ついたんだ?」
当時のわたしはかなり短めのショートヘアで、第二次性徴も遅く、よく男の子に間違われていた。その頃の写真を見ると別人かと思うくらいだ。
「数藤だって解った訳じゃないけど、数藤先生とめちゃくちゃ似てたから多分間違ってないと思った」
要するに千倉は『数藤先生とよく似た女子高生』を発見し、年齢から推測してかつての男子とあまり見分けもつかなかったわたしの存在に思い至ったのだろう。
当時の叔母はとても綺麗で、歳の離れた姉がいるようで内心自慢だった。みんなに好かれていて、やさしくてしっかり者。生徒達もみんな叔母が好きだった。
教師を休職して、失踪する直前までの叔母は、憔悴のあまり美しかった容貌もやつれてしまっていたけれど、あの頃の叔母に似ているというのは純粋に嬉しく、面映ゆかった。
「高校、こっちの受けたんだ?」
「うん。どうせなら電車通学とかしたくてさ」
千倉はポケットからスマートフォンを取り出した。
「またそのうち逢ったりとか話したりとかしたいし、連絡先交換しよう?」
「そうだね」
本当は六辻町に住む千倉と再会したのだから、他にも訊きたいことはあった。
行方不明事件の新たな情報はあったのか。六辻小学校のみんながあの後どうしているのか。千倉にとってあの事件がどう見えていたのか。
やや勇気を出して口を開いたけれど、気がついたらさっきまで思い浮かべていなかった問いを放っていた。
「憲子叔母さんのこと、聞いた?」
数年離れていたので、六辻町のみんながどの程度叔母の失踪について知っているのか想像できなかった。
千倉が戸惑ったような表情で見下ろしてうなずく。
「中二の時に失踪したって噂が流れてた」
わたしも小さくうなずいてみせる。
事件当時、千倉は彼らと同じクラスだった。彼にしてみればクラスメートが消え、その二年後に担任だった先生が消えたことになるのだ。
千倉が話しにくそうに瞼を伏せた。
「あの後、六辻小が廃校になったの、知ってるか?」
「何それ」
六辻小学校は大きな学校ではないが、一学年に二クラスある。いきなり廃校になるほどの規模ではない。
しばらくの間、千倉は黙り込んだ。
わたしにどう話そうか悩んでいるものらしい。わたしの方も突然知らされた廃校の話に戸惑いつつ、彼が再び口を開くのを待っていた。
「あの事件のこと、数藤先生から何か聞いてる?」
「学校のどこかで血痕が発見されたとか、争った形跡があるとかいう話を聞いた後は何も」
「マジで?」
「事件の内容によっては、わたしに何気なく話したせいで、いなくなった子達が暮らしていけなくなるかも知れないから、学校の先生の家族から噂が出るなんてことはしたくないって」
あの頃には意味が解らなかったけれど、五人の小学生が争った形跡や血痕と共に消えたのなら、連れていった人間は何をしでかすか解らない。無惨な死体が発見される可能性も高い。そしてそれ以上に尊厳を奪われてぼろぼろになった生徒達が生きて戻ってきた場合、田舎ではまともな生活をすることは不可能になってしまう。
叔母が気遣うのは当然のことだった。
「じゃ、本当にろくに知らないままだったんだ」
「2組の生徒はやっぱりあんまり知らなかったよ。担任の川村(かわむら)先生も、警察がちゃんと調べてるから邪魔にならないようにしようって言ってたし……1組の子達はそういう訳にもいかなかっただろうけど」
自分のクラスから五人が消えたのだ。
しかも暴力の痕跡があったのだ。
自分が拉致される恐怖がずっと身近にあっただろう。
もちろんそれは2組のみんなも、五年生以下の生徒達も同じだけれど、当事者感覚が一番強かったのは1組の子達や憲子叔母のはずだ。
あの頃、叔母は小学校で起こるとは予想もしない事件に消耗しながらも、熱心にわたしの勉強も見てくれた。そのおかげで、本来行く予定もなかった私立中学に入学する学力をつけることができたのだ。
今思えば、叔母はわたしを六辻町から遠ざけるために勉強を教えてくれたのだろう。六辻町の事件について説明する代わりに家族みんなで家を出ることを選んだのだ。多分、内心で生徒達より家族を優先したことに苦しんでいたからこそ、あんな手紙を残して失踪してしまったのだろう。
そういう意味では、今こうして六辻小学校の卒業生である千倉と再会するのは、やはりいたたまれなかった。
あまり聞かされていなかったけれど、屈託のなさそうなタイプの千倉が何となく話しづらそうにしているのだ。他の生徒達にとって、あの事件はわたしが感じていたよりずっと悲惨なものだったのだろう。
「その、廃校になったのって、あの事件がきっかけ?」
「うん」
規模の小さい学校とはいえ、一学年に複数のクラスを抱えていた学校が廃校になった理由として充分納得がいった。学校に行くのを怖がる生徒達は続出するだろうし、高学年ならうちの親のように子供に私立を受験させたりするだろう。転居を考える家も当然増える。そして規模が小さいからこそ、残っている生徒を他の校区へ移動させたりすれば廃校に持ち込むことも不可能ではない。
千倉が続きを話そうとした時、わたしの降りる駅の名が連呼され、電車のスピードが落ちる。
「わたし、降りなきゃ。その話は気になるけど」
「大丈夫。メッセージ送る」
電車が停まり、ドアが開いた。
IMクライアントでメッセージを送る約束を交わし、わたしはホームに降り立つ。
「それじゃ、また」
眼の前の千倉が笑顔で小さく手を振ったタイミングでドアは閉まった。その表情は子供の頃と変わらない、無邪気なものだった。
こんな話題の途中でなければ、わたしも笑顔のひとつも浮かべたかも知れないが、不器用にうなずいてみせるのが関の山だった。
千倉は電車が走り出して数分後にはメッセージを送り始めてくれた。彼のメッセージが届くたびに、どんどんわたしの心は沈んでいった。
メッセージの内容は、当時の6年1組の情報についてに絞られていた。彼の感想、気持ちなどは全く入れないように、情報を伝えることに限定したのだろう。
ただ『それ』は一読すると到底事実だと思えないような内容だった。
ゴミ
他のクラスや学年の生徒達が知らなかった『それ』のことを、1組の数人はそう呼んでいたのだという。
最初はその言葉を見て「1組で密かに悪質ないじめがあったのだろうか」と思いつつ読み進めていたけれど、そうでないことに途中で気づき、思わずスマートフォンを持つ手が強張ってしまう。
その『ゴミ』を、1組の数人が飼育小屋で飼っていたと書かれているのを見て、わたしは首を傾げた。
(飼育小屋なんてあったっけ)
ややあってから小学二年の頃に使われなくなった飼育小屋の存在に思い至った。六辻小学校には使われていない飼育小屋があったのだ。
あの飼育小屋が使われなくなったのは、土壌の問題があり、いつ崩れてくるか解らず危険だからだ。合成樹脂シートで覆ってあり、近づかないように先生から言われていた。あそこであの当時に何かを飼っていたということか。
わたしは脳内で学校の立地をおぼろげに思い出す。
汚れた合成樹脂シートがかけられたあの場所の内側について考えてみなかった。でも、あの中には何か――そうだ。『ゴミ』が飼われていたのだ。
その『ゴミ』について、千倉のメッセージには書かれていなかった。多分彼も自分で知っている訳ではないのだろう。
『ゴミ』と称する何かを飼っていたのは行方不明になってしまった五人の生徒らしい。ただ文面からは『ゴミ』と呼ばれた存在がどんな動物なのかは解らなかった。
千倉のメッセージによれば、五人の生徒達は『ゴミ』のことを、何故か途中で『肉』と呼ぶようになったらしい。
その理由についても書かれていなかった。
ただその数日後に彼らはいなくなり、『肉』は無惨に喰いちぎられ、ぼろぼろになった遺体だけが飼育小屋に残された。その『肉』を飼っていた生徒五人が消えてしまったので、彼らの意図は未だに摑めないままだ。
(何でこんな話をわたしに読ませようとしたの?)
このグロテスクな内容以上に、千倉が何を考えているのかが理解できなかった。こんな内容を、数年ぶりに再会した元クラスメートに伝えて何の得になるのか想像すらできない。
わたしの戸惑いをよそに千倉のメッセージは続く。
彼の自宅は六辻小学校の近所で、卒業してからも学校の噂は入ってくる。だからこそ、わたしの知らなかった『その後』について知っているのだ。
でも千倉のメッセージがどんどん奇妙な内容になっていくのを追っていると、これが本当に過去の自分が住んでいた場所の話なのかと途方に暮れる。
小学校の近所で、あの五人を見かけた人がぽつぽつと現れるようになったのだという。
彼らは全員で現れる訳ではなく、一人、もしくは二人くらいで目撃される。呼びかけると反応はするけれど、何となくかつての彼らと違う印象があり、目撃した人達が「何となく怖くてそれ以上近づけなかった」らしい。その間に彼らは姿を消してしまうのだ。
そこまで読んだわたしの中に湧いてきたのは、生々しい嫌悪感だった。
叔母が姿を消した時の手紙は、行方不明になった生徒達を助けに行くつもりであるとあった。叔母がその時に充分理性的だったかは解らないけれど、少なくとも叔母は自分が行けば彼らを助けられる可能性があると信じていたはずなのだ。
もちろん生徒への罪悪感からくる、根拠などない思い込みかも知れない。誰も解ってあげられないほどの煩悶を抱えていたのかも知れない。でも、わたしはそれ以外の可能性――叔母がこの噂を知ったせいで失踪したのではないかという可能性を考慮せずにはいられなかった。
しばらくの間メッセージを繰り返し読み続け、その後返信する。
『今も五人の噂は流れてる?』
叔母のことを訊いてみたいと思わなくはなかった。
でも、1組の五人の噂を聞いて不安になったのだ。
わたしは叔母の同じような『噂』を聞いても、平気でいられるのだろうか? そんな自信は全くなかった。
もしこの噂が風化していないのなら間違いなく叔母もそれを確認しに行ったはずだ。それなら、叔母が消息を絶った場所は六辻小学校である可能性はそれなりにある。
ややあってから、メッセージが来る代わりに呼び出し音が鳴った。
「もしかして、六辻小を見にこようと思ってる?」
「……閉鎖されてるの?」
「されてるけど入ろうと思えば入れる」
電話越しに千倉が溜息をついたのが聞こえる。
「あのさ、念のために言っとくけど、数藤先生を六辻小で見たって噂はないよ」
「うん。教えてくれてありがとう」
叔母の噂が流れていようがいまいが、状況を確認しておきたかった。でも、それは千倉に面倒をかけていいということではない。
「一人で行くつもりなら、あんな風に話はしなかった。俺のメッセージに知ってることを全部書いた訳でもないし、あれだけで決められるとしんどい」
千倉についてこないでくれと言ったつもりはなかったけれど、一人で行くつもりなのは露骨に伝わってしまったらしい。
「俺が送ったのはうちの近所と6年1組の噂だけだし、そもそも『肉』の話はほとんどしてないから」
確かにメッセージには飼われていた動物について書かれていなかった。あれは知らなくて書けなかったのではなく、意図的なものだったのか。
つまり、わたしと千倉はどちらも自分の手持ちの情報を伏せて話していたのだ。
当然ではあった。別に仲が悪かった訳ではないけれど、特に親しかった訳でもない、四年のブランクのある相手だ。情報が全て伝えられなくても当然ではある。ただ、小学校時代の千倉は、こんな風に話題を伏せるタイプではなかったので何となく奇妙な気分だった。
「千倉はもっとオープンなタイプかと思ってた」
「そうでもない。割といろんなことを伏せてる」
「話してくれる気はない?」
「俺だけが?」
明るく冗談めいた千倉の口調を耳にした時、一瞬頭に何かよぎった。前にもこんな口調で千倉が何かを話していた時があった気がしたが、思い出せなかった。
「他の誰かに言わないでくれるなら話してもいい」
「約束する」
その約束自体が信じられる代物かどうかを判断する材料はないけれど、今は信じるしかない。
わたしはあさって、土曜日に六辻町を訪れ、互いに伏せていることを打ち明け合った後、六辻小学校に二人で向かうことを約束して通話を終えた。
何故千倉がわたし一人を行かせないようにしたいのか解らなかったけれど、その理由の一端が四年前の事件にあることくらいは想像がついていた。
その夜、小学校で千倉と話した時の夢を見た。
初夏のようだったから、あの事件よりも少し前のことらしい。廊下を歩いている時のことだ。
あの当時、どこからか漂ってくるわずかな腐臭に悩まされていたわたしは、お馴染みの感覚を押し殺すために息を止めた。
わたしが気になっているタイミングに、腐臭に気づく生徒はおらず、幻覚なのではないかと疑っていたこともあり、誰にも言えないまま反応を消すしかできなかった。自分以外は全く気づいていない中、何となく口にしてはならないような気がしたのだ。
「数藤もなんだ?」
だから、突然隣のクラスの千倉が声をかけられた時には戸惑った――のだと思う。三年も前のことだからはっきりと憶えてはいない。
「何が?」
問い返すと、千倉は笑った。
「あ、ごめん。もう理科室に行かないと」
足早に去ってしまう千倉の後ろ姿を、戸惑ったまま見送るしかできなかった。
何が「数藤も」なのか考える前に先生が歩いてきたので、結局その言葉がどんな意味なのか考える前に忘れてしまった。
夢の中で思い出した千倉の笑顔は、普段見知っている無邪気なものではなく、曖昧でやや憂鬱そうだった。声がいつも通りに明るかったから、わずかな違和感があったのだ。
目が覚めて、それは実際にあったことを夢で思い出したのだとやっと気づく。
「……ああ」
どうやら千倉と話した時の『明るく冗談めいた口調』が気になっていて、夢の中でまでいつ聞いたのか思い出そうとしていたのだ。あの日、千倉の笑顔とその時の声が妙にアンバランスな印象があった。純朴そうだった当時ですら、それが無邪気に放たれたものだと認識していなかったらしい。
そして今、彼が当時話しかけてきた意図がやっと理解できた。
千倉は多分わたしと同じようにあの腐臭を感じ取っていた。だからこそ「数藤も」と言ったのだ。
あれ以降、卒業まで千倉はそんなことなど起こらなかったかのように過ごしていた。卒業式の日、まだ小柄だった彼が、みんなにもみくちゃにされながら満面の笑みを浮かべていたのを思い出す。もちろんあの千倉の姿も嘘というほど嘘ではないだろう。
ただ、わたしがそれ以外の部分を知らなかった。当時の自分は他人の内側に見えない領域が存在することに思い至らなかった浅はかな子供だった。それだけのことだ。
その日は起きてからも学校に行ってからも、明日千倉と逢わねばならないのだと意識し続けていた。
もちろん嫌ではなかったけれど、彼が同行してくれる理由すら解らないので、もやもやとした気分のまま土曜日を迎えることになった。