「ひと」と「自然」
わたしは、自然に囲まれて育ちました。
かぶと虫を採りに山へ行ったり、魚を捕りに小川へ入ったり。
蝶々を追いかけ、蜜蜂に追いかけられました。
で翡翠のつがいを見たこともあります。
あるとき、高速道路が造られることになりました。
毎日多くの重機が行き交っており、子どもだったので興味がありましたが、近くには行かせてもらえませんでした。
道路が完成した後しばらくして、何気なく、いつかゲンゴロウを捕まえに行った沼に足を運んでみました。
ところが、その沼がどこにもないのです。
わたしは必死になって探しました。その沼には、一緒にゲンゴロウと戯れた友人との思い出が詰まっていましたから。
とっぷりと日が暮れ、沼がどこにもないと諦めたとき、かつて沼があった場所に高速道路の支柱がそびえ立っていることに気付きました。
ショックでした。
その日は、家に帰って布団の中で泣きました。
大学生になったわたしは現在、環境思想を学んでいます。
耳馴染みがないかもしれませんが、環境思想とは、ひとことで言えば、人間と自然の関係について考える学問です。
実際にやっていることは、哲学に近いかもしれません。
大学に入って、自然の中で育った人が少ないことに驚きました。
都会で生まれた人間が、まだ見ぬ自然について議論し、発表する。
もちろん素晴らしいことだとは思いますが、そのような場合に俎上に載っている自然とは、本当に「自然」なのでしょうか。
それを別世界の出来事と捉えてしまえば、問題意識はやがて頭の隅に追いやられ、彼らはそのまま企業に就職していきます。
大切なことは、世の中で起こっている問題、グローバルイシューと言われるような懸案事項を、自分のこととして真剣に考えることであると思います。
自然の中で育った者として、環境問題に対する想いは強いと自負しています。
わたしには、環境問題を自分の問題として捉えることのできるバックグラウンドがあるからです。
最近では、畦道を歩いていても、バッタが飛び出してくることはほとんどなくなりました。
かつて賑やかだった生き物たちは、いまや沈黙しつつあります。
自然は、わずか10年ほどの間に大きく変わってしまいました。
わたしが自由研究でした昆虫採集を、弟がすることはもうできません。
災害や異常気象が増えていますが、取り返しがつかなくなる前に、わたしたちは自分たちの存在について、今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。