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娘道成寺と語学

歌舞伎の演目『娘道成寺』の話になった時、ざっくりとしたストーリーを聞いた30代後半の女性2人は

それって、ストーカーじゃん!

と言った。

若い僧の安珍と清姫は夫婦になる約束をする。僧である安珍は修行の身であるため、清姫との約束を破り帰途についてしまう。清姫は怒って安珍の後を追い、大蛇となって道成寺の鐘の中に隠れた安珍を焼き殺す…という伝説の後日談で、白拍子花子という旅芸人が女人禁制の寺に入り、舞を舞いながら、形相を変え、鐘の中に入る。鐘を引き上げると中から大蛇が出てくる。実は花子は清姫の化身であった。

『娘道成寺』

彼女たちは、清姫に殺されてしまった安珍を可哀想だと言った。
叶わないのだから追いかけてもしょうがないと彼女たちは言った。

私は清姫の気持ちが切ないと言った。恋しくて恋しくて、とうとう大蛇になってしまった清姫の行く宛のない気持ちがよくわかる。

そんな恋はさっさと諦めて、自分を想ってくれる相手と結ばれる、それは合理的であるが、私は非合理的な人間の感情を愛おしく感じるし、そのような感情があるからこそ芸術が生まれるのだと思っている。


語学はこれに似ている。
永遠に思いを遂げることが出来ない。
しかし、追いかけ続けねば手に触れることもできない相手である。
1000時間学習をしたとて、1000時間分の成果が得られるとは限らない。
強い知的好奇心と、強い意志を持った者だけが、少しだけその愛に触れることができるのだ。

時短やコスパなど合理性が歓迎される現代では、スマホがあれば語学力などいらない。
留学や長期滞在ならもちろん話せなければならないが、そうでないのならこんなに報われにくいものは敬遠されるだろう。
まして、私など海外に行くことは果てしなく難しく、その言語が生活の糧になる可能性は著しく低い。
それでも何故やるのかと尋ねられたら、もうそれは執念なのかもしれない。1000時間分学習した成果が、1/1000だとしても、私は言葉の先にある人間の思想や文化や世界を知りたい。
いや、それより単純で、「外国語が話せる!かっこいい!」という憧れを手に入れたいだけなのかもしれない。
そうして追いかけ続けるうちに、もしかしたら、私はいつか大蛇になってしまうのか…。


さて、安珍を焼き殺した清姫は、果たして報われただろうか。
恐らくそうしてもなお手にすることができない安珍の愛を求めて、彼女は永遠に彷徨うのだろう。
それを犯罪だと片づけてしてしまうのは、なんだか寂しい。
私は、恋心が執念に変わり、大蛇になってしまった清姫をとても愛おしく思う。


追いかけ続けても手に届かず、意味がないかもしれないけれど、追いかけてしまう人間の性(さが)を愛おしく思う。

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