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自分軸にしたら自分が辛くなった話

最近、意図していない方向から「自分軸」と「他人軸」の話題が飛び込んでくる。
生きづらいのは思考が他人軸、つまり人の評価や人の価値観を主軸にしているからで、それを自分軸にすることで楽に生きられるよというライフハックのようなものだ。
障害を抱える私には、生きづらさ以前に暮らしにくさを感じるので、贅沢な悩みだなと思ってしまうし、戦禍にある人たちや、1日1ドル以下での生活を余儀なくされている人たちには生きづらさなどということより、いかに今日を生き抜くかの方が大切に違いない。
それでも昨今の日本は、多くの人が生きづらさを感じているらしい。

ふと振り返ってみた時に、最近の私は他人軸になっていたなと思う。
それは他人の評価基準や価値観に寄せることとは少し違うが、ひと言で言うなら、仕事とプライベートに関して、”相手が快適に過ごせるように自分の相手のペースに寄せていた”ということだと思う。
その生活を数か月してみて、笑顔や食欲を失くすとか、ウツになるといったことはないものの、このまま続けていたら私の心は折れてしまうような気がした。

それで私は、自分のペースで事を進めることや、執着心のようなものから離れるよう、軸を自分に寄せてみることにしてみたのだ。
ところがそうしてみると、自分が自分に我慢を強いたり、人を失う不安に駆られたり、あるいは無力感に苛まれ、人を蔑ろにしているような後ろめたさまで感じるようになった。

そもそも私は他者からの介護なしでは生活できず、もちろん自分に全く選択権がないというわけではないが、どこかで人の顔色を伺って生きている。
良い人でいよう、役に立つ人でいよう、そういう意識が私はとても強い。
人に受け入れてもらえなかったとき、「ほかにたくさんの人がいるじゃないか、この人に嫌われてもかまわない」とはならないのだ。
「人からどう思われても良い、自分がやりたいようにやる」というのは理想ではあるが、生存に必要な他者への依存が体に染みついているので、”嫌われたくない”気持ちが勝ってしまう。


だから、自分を主軸に置いてみた時、必ずしもそれは安らぎに近づけるものではないかもしれないと思った。
むしろ他人軸・自分軸について書かれたものを読み漁る方がよっぽど他人軸で生きているのではないかとさえ思う。
軸をどのポジションに置けば心地よいのか、それ自体、きっと人それぞれで良い。
軸位置を決めることこそ自分軸でいいのではないか。


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