「母親の優しさ」
悲しい知らせが入った朝、私は思いのほかそれを自然に受け止めた。
その日が確実にくるとわかったとき、私はそのことにどれくらい耐えられるだろうかと思っていたが、ズシンとくる一瞬の重み以外は、むしろ見事な闘いの終わりと、たったひとつの汚れさえ無き完璧な愛の世界を見せていただいた感謝でいっぱいになった。
同じ朝、報道番組では遠い国の戦争の話をしている。想像もつかない程のおびただしい棺なき亡骸が、その地に眠っているはずだ。
どちらも私とは直接関係のない誰かの"死"の知らせだ。
その後、先日注文して届いた品物の荷を解き、その箱にもう使わなくなったコスメ類を詰め、昼食をとり、メールの整理をし、フランス語のルーティンと復習と宿題をし、毎日SNSに投稿している漫画を描き、今noteを書いている。
母にその悲しい知らせを伝え、すごい人だよね、立派だねと言いあい、何度読んでもよく理解できないニュースの話をし、いつものようにくだらない話をした。
しなくてはならないことや、したいことをリストアップし、忙しくすることで、私は自分が生きていることを実感した。
父がこの世を去ったあの早朝でさえ、ドラマで見たように泣きわめくこともなく、闘いが終わったことに安堵し、諸々の手続きを済ませた後、空腹に気づいておにぎりを食べたのだった。
誰かの死は、自分の命がまだ続いていることを改めて教えてくれる。
今日も誰かの命が消え、誰かの命が生まれる。人間のごく普通の営みの中に私達は生きている。
春雨が満開の桜を濡らす早朝に、その人の母は旅立っていった。
それでも、大切な人を失った私の大切な人の人生は続いていく。
カバー写真のオキザリス、花言葉は「母親の優しさ」だそうである。