戦禍を生き抜いた祖母の話
生きていれば100歳を超えている。
祖母は96歳で他界した。
大往生だ。
祖母はお見合い結婚をした。何歳の頃だったのかは知らないが、当日はじめて相手に会ったそうである。
相手はいわゆる天皇の料理番をしていたそうで、家では着流しだったそうである。
結婚後、祖母が料理を出したところ、「こうやるもんだ」と言って、庭の緑を折り料理に添えたという話が、母を通じて私に届いている。
太平洋戦争が開戦し、祖父は招集され、祖母は幼い娘、つまり私の母を背負い、降ってくる焼夷弾から逃れたそうだ。
その後、祖父はレイテ島で戦死している。
母子2人で生きていくことに悲観した祖母は、娘を井戸に入れて自分も死のうとしたそうだ。ところが娘が大声で泣き叫んだため、はたと我に返り、その後は親戚の家に身を寄せ、肩身の狭い思いをしながらなんとか生き、勤め先で知り合った男性と再婚した。
私が知っているのはそれから何年も経った祖母と再婚相手の祖父である。
祖母は定年まで働いていた。
今のようにスーパーで手軽にお惣菜が買えるわけでもなく、ましてコンビニなどというものがない時代、そして家事は女の仕事だった時代、働きながら家事もこなす祖母は時代の先端をいっていたのだろうか。
お正月に祖父母を尋ねると、手作りのお節がテーブルいっぱいに並んでいた。時折作ってくれる太巻き寿司は刻んだパセリが入っていて、太巻きがあまり得意でない私も、それだけは美味しいと思えた。
祖父は、血のつながりのない私を可愛がってくれた。
そんな祖父が他界、祖母は二度目の死別をすることになる。
そしてそれは妻である祖母にとって、胸が張り裂けてもなお裂け続ける体の痛みに似た別れだっただろう。祖父はそういう終わらせ方をしてしまった。
それからまた少し経ってからのこと、なんだか様子がおかしくなり、気づけば認知症を発症していた。
晩年には娘のことも孫のこともわからなくなり、静かに息を引き取った。
病死ではあるがほとんど老衰と言っても間違いではないほど、その最期は静かだった。
私が知っている祖母は、働き者で、人付き合いが少し苦手で、時々祖父に文句を言い、孫を可愛がり、庭木を愛で、激動の時代を生きた人だ。
今日、1月26日は祖母の誕生日である。