今までタントラセラピーを習えなかった理由
最近、考えていたことがある。
それはSEXのあるべき立ち位置についてだ。
本来なら、SEX【性欲】は食事【食欲】とか睡眠【睡眠欲】とか排泄と並んだ生活の一部であるはずなのでは。
自分のことを大事にしすぎては(過保護にしては)いけない。
SEXだけを特別に扱うのもおかしい。
そんなことをうっすら考え始めたのは、BIPSのワークショップで7つの感情回路について学んだことがきっかけだった。
この7つの基本的な感情のうち、 ” LUST(性欲)" と " PLAY(楽しみ)" の2つはわたしの生活から完全に欠落していた。
ワークショップが終わり、生活の中で欠けているその2つをなんとか補充したい、そしてバランスを整えようと思い立った。
だけど、そう簡単ではない。
欠けているのは必然で、苦手だから欠けているのだ。
LUST(性欲)とPLAY(楽しみ)という2つの感情はわたしの中で関係していて、それをつなぐのはありのままでいることへの" 罪悪感 " のようなものだ。
今回はタントラといえばということで、LUST(性欲)に焦点を当ててみようと思う。
その前に一旦タイトルに話を戻す。
前回↑書いたように、わたしがタントラセラピー(≒タントリックヒーリング)を知ったのは約1年半前のことで、一旦は申し込んでおきながら怖くてキャンセルしたという経緯がある。
今思えば行けなかった理由は3つある。
ひとつは、自分が誰かに影響を与えること、誰かをコントロールできてしまうことが怖かったからだ。
わたしはよくひとを泣かせてしまう。
学生時代、何か言うたびに友達が泣いて雰囲気を壊してしまうのがすごくいやで、素直に思ったことを口に出すことができなくなったほどだった。
わたしは以前書いた(ひとの人生を壊してもいいよ)通り、自分が「ひとを壊してしまう」人間だと思ってきた。
今はそんな自分を許容できているし、相手を信じられているのだけれど、当時は違った。
ふたつめは、最初のところでも触れた「性」へのブロックだ。
「性」はわたしにとっていつも厄介な存在だった。
陽中の陰のようにわたしの中にあり、どんなに厭おうと憎もうと捨てさることができなかった。
エネルギーの体感を得てからもそれは続いた。
身体をエネルギーが流れる感覚は前回一番下で紹介しているYoutubeの反応でもわかるように、セクシャルな感覚に近い、というより肉体のそれを超える。
溺れそうな自分がいつも腹だたしかった。
けれど、無理な抵抗だった。
そうわたしに理解させてくれたのが、先に書いた「7つの感情回路」の話だった。
LUST(性欲)は「哺乳類より前時代の動物である爬虫類などの脊椎動物とも共有する古い感情回路である」とされている。
そりゃそうだ、だって種の保存には欠かせない。
そんな原始的な本能にひとりのちっぽけな人間があらがえるわけもなかった、と当たり前に思った。
現代は、性欲が単体で存在することを(特に女性に)許していない。
性欲は恋愛や結婚や交際とかとセットで語られるべきであり、そうでないものは邪道として扱われる。
このルールや風潮の方が、そもそもおかしかったのだと今更腹落ちした。
そして、セックス=好きなひととする行為という思い込みをなくして、そうでない自分が存在することをゆるした。
そのとき、物事はとてもシンプルになった。
性欲と食欲と睡眠欲がわたしの中でするすると横並びになっていく。
それでも性欲はさながら夜の海のようだ。
のみこまれそうな得体の知れない感じ、そして溺れてしまいそうな一面を持っている。
けれど、もしそうなったとして戻ってこられることを今は知っている。
溺れることそのものも楽しめるくらいに、大人になれたような気すらしてくる。
それは性欲ごと自分を肯定できたことが一番大きい。
ところで、タントラセラピーのセッションは実際のところ直前キャンセルも多いのだそう。
怖いのはみな同じ、わたしだけではなかったらしい。
ここに、今までタントラセラピーに踏み出せなかった最後の理由がある。
ふたつめまではクライアントとしてのものだけれど、最後はセラピストとしての性質が大きい。
それはセラピストへの信頼だ。
セラピストを目指す場合、それを教えてくれる先生への信頼が必要になる。
前回、タントラセラピーは、「繊細さと創造性と勇気、そして覚悟」つまり
一見相反するような4つの要素が必要だと書いた。
優しさは前提として必須、けれどそれだけでは足りない。
セラピーやヒーリングは傷を癒したいわけなんだけど、欲求や願望というのは大抵の場合、過去に受けた傷やトラウマのすぐ裏側にある。
だから、癒すときには深い傷ほどそのひとのかなりデリケートなところにまで踏み込む必要が出てくる。
タントラセラピーにわたしが惹かれるのは、まさにここだ。
一番欲しいものは、一番怖いもののそばに隠れている、それがエキサイティングだと感じる。
だから、その旅はすごくギリギリのところに踏み込んでいく " 繊細 " な作業で、一歩間違えれば相手を傷つけ、返し矢は自分に刺さるかもしれない。
そうなるリスクを想定した上での " 覚悟 " が必要になる。
そこで恐れが現れるなら、平常心で同居できなくてはならない。
” 創造性 " と " 勇気 " を携えてそのか細い道を恐る恐るではなく大胆にギリギリを歩く必要があるからだ。
その過程にはたくさんの果実がなっていて、それをひとつひとつトコトン楽しみながらたどり着いたその先にこそとんでもない世界が広がっている。
この「ひとの内面を存分に味わい尽くす旅」こそがわたしの思うタントラセラピーだとするなら、セラピストには4つの要素が確実に必要なのだった。
天蔵さんの中には、これらがすんなりと同居しているように見える。
初級講座の後生徒の方に「何かあったら連絡してください」と声をかけていたし、講座の間もずっと全員の様子に気を配っていた。
彼の行動がどのような意図によるものか聞かなかったけれど、わたしが彼に信頼を置く理由はこのあたりにある。
自分の中にある " 繊細さ " を許さない男性は多い。
社会は、一見弱さにも似た " 繊細さ " を女性の特性として扱うからだ。
けれど、彼はおそらくその自分の " 繊細さ " を受け入れ、価値を認めている稀有な男性だ。
だから、一見矛盾するような「勇気」や「覚悟」とともに彼の中でバランスを取り、総合的にしなやかな強さを作り出している。
…んだろう、多分。(完全にわたしの推測です。)
そして、スピリチュアルを勉強してきたわたしが、それを職業にできなかったのは不安があったからだと今更に気づく。
何かあったら、がいつも頭の片隅にあったから踏み出せなかった。
今回セラピストになりたい、と言えた背景には天蔵さんへの信頼がある。
前回もセラピストの能力について触れたのだけれど、この信頼を置けるというのが一番必要で、一番難しいのだ。
長々と書いてきたけれど、かくしてタントラセラピーを習えるようになった自分が今ここにある。
それが心から嬉しい。
ということが一番言いたかったです。