「求めよ、さらば与えられん」がシェアの本質
わたしは、noteでも書いているように、様々なワークショップに参加している。
ワークショップにつきものなのが、「シェア」なのだけれど、わたしはこれがすごく苦手だった。
以前は、「言う」前にどこまで言っていいんだろうとかジャッジがめちゃくちゃ働いていて、言う前に疲れてしまうことがよくあった。
もうひとつの原因は、温度だ。
自分の温度とほかのひとの温度がズレている、そう感じると一気に冷める。
スカされると、なんだか ” シェア泥棒 ” されているような気分に勝手に陥る。
安全な場が形成されていなかったのだろうか。
と振り返ってみたけれど、特にそういうことではなかったように思う。
いつも主催者のひとから聞くフレーズをここで思い出す。
「もったいない」ひとがいる、というやつだ。
ある程度のお金を払ってもらっているから、それだけのリターンを得て欲しいと思うけれど、自分を開けないひとがいて、どうしようもないのだと。
けれど、最近そういうことをわたし自身もあまり感じていなかったし、こういうことを聞くこともなくなったことに気づいた。
むしろ、シェアだけではなく色々な場面でとんでもないギフトをもらったようなことが増えた。
隣のひとの真摯さに、素直さに、胸をうたれる。
神々しいとすら感じる。
それは、やっぱり参加者の方の熱というか覚悟というか、つまりコミットメントしているかどうかなのだと思う。それは切実さにも比例するし、金額にも比例する部分もある。
最近参加するワークショップでは、そういうひとに出会う確率が上がった。
よいシェアに出会うとき、この場は神様が用意したんだろうなと直感する。
そういうときは何をいうかも自然にどこからか降りてきて、するすると口が動く。
その場にいる全員が必要不可欠な存在で、誰一人欠けてもこの場は成り立たない。熱量が高い。
自分が発光してるみたいに感じるときもある。
そういうときはだいたい不思議なことが起こる。
おそらく主催者の意図をはるかに超える何かが生まれる瞬間。
その人の覚悟の分だけ、リターンがある。
カウンセリングを受けているとき、同じ病院でやっている自助グループをやたら勧められた。
シェアはつまり、カウンセラーがカウンセリングでは不足していると考えた部分、自助グループで補完している役割なんだと今更思い当たる。
人は、ひとの体温が必要だ。
その人は、上じゃなくて隣にいるひと。
わたしがカウンセリングでは足りないと感じる一因かもしれない。
カウンセリングは1対1でクローズドで安全な空間。
でも、安全すぎる場所には、それだけのものしか「用意」されてない。
温室や公園に人為的に用意された植物と、自然にある生き物の生の濃度が違うのと同じこと。
外で傷ついたからといって、安全な場所だけで生きていきたいわけじゃない。
シェアは自分で歩き出して、もう一度外に出ようと勇気を出して、周りの世界を信じようとトライした人にだけギフトをくれる。
そこには、今までより少し広がった安全な世界がある。