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「レス」は自分へのDVから始まる

前回、しれっとこう書いて放置したので、続きを書く。

男性性はその女性性を応援して発揮するための思考のこと

男性性は、社会性とも取れるし、大人的な役割とも言える。
内側と外側の接点。

ここで一つ前提を。
わがままを言わないことや我慢するのではなく、うまく通せるのが本当の大人である。
自分のわがままをうまく通した経験は、誰かのわがままを快く受け入れてあげられる能力を獲得し、発揮することは周囲の幸せにもつながる。
わがままを封印することは、自分らしさを失う事につながり、周囲にも同様のことを強いることになる。
「やりたい」からすべてが始まるし、「ほしい」がなければ生きる意味もない。
という私見から以降を展開するので、ここからは感性が合う方にお届けする。

自分らしい女性性がまずあり、それを実現する男性性を発揮することが、女性性と男性性のバランスを保つということである。

「チョコを食べたい」
そんなわがままに対して、前回何通りかの男性性の反応を例示した。

自分の中の男性性:「ダイエット中だから我慢しよ。」
旦那様:「また太っちゃうよ。やめときなよ。」
彼氏:「いつもの切れちゃってる。一緒にコンビニ行く?」
母親である自分:「もう、虫歯になるからダメよ。歯磨きも終わったでしょ。」

本来の男性性を発揮しているのはこの中では彼氏だけということになる。
つまり、それ以外は女性性と男性性のバランスを欠く。

「それくらい、我慢したって、いいじゃん。」
今、チョコを食べたい。
そんな小さな望みでも、我慢を重ね続けることは、女性性と男性性のバランスを崩す。

「太るよ」
他人にかけられたくない言葉は、自分にもかけてはいけない。
他愛のない一言で、内なる女性性は傷つけられ、抑圧される。
これはいわば内側の男性性による女性性へのひとりDVだ。
自己肯定感の低い人、自信がない人なら100%やっていると思う。

かつてのわたしは、これを365日24時間やっていたし、今もゼロになったとは言えない。
朝だるくて起きられなければ、「昨日夜更かしなんかするからだよ」「生活が乱れるなんてだらしない」「ちょっとだるいだけで起きられないなんて情けない」、、、自分への野次は尽きない。
それを毎日続けると、女性性は何も言わなくなっていく。
「言っても、聞いてもらえない。」
そうやって、自分で自分をあきらめる。
自分の価値がよくわからなくなる。
生きる意味を見失う。
何も自覚がないままに、自分の気持ちがわからなくなる。

したいことがわからない。
食べたいものがわからない。
今、自分が悲しいのかどうかわからない。
何も言わなくなった女性性の持ち主は、そんなふうになっていく。
感じることがつらいから。

痛みは、死なないためにある。
けれど、痛みを感じても回避できないのであれば、感じることに意味はない。

ここまで書いて、チョコを我慢するくらいで大袈裟な、と思う方もいるかもしれない。
けれど、前回書いた通り、これはパートナーシップに直結する。

ひとりの人間においても、複数の人間関係においても、うまくいくものはこの女性性と男性性のバランスがとれている。

目の前の世界は、自分の内側の投影だから。
自分の中に自分女性性を軽んじる自分男性性がいれば、そういう男性が目の前に現れる。

類は友を呼ぶ。
自分の気持ちを大事にしない人間と、相手の気持ちを大事にしない人間は両思いだ。
自分に優しくできない人の前には、相手に優しくできない人が現れる。

わたしたちはいつも自分を後回しにしている。
「こどもが」
「親が」
「会社が」
「彼氏が」
「世間が」
全部自分じゃない。
自分の人生なのに、自分ではない何かを主役にして生きている。

最初からそうだったわけではない。
彼女と彼氏だったころには優しかった彼が、結婚した瞬間にあるいは子どもができると変わる。
そのときに、多分自分も変わっている。

それは悪い変化ではなく、環境の変化に対応するためだったはずだ。
世間が求める「いい妻」「いい母」になろうとした純粋な気持ちが、自分を殺していることにつながるとは思いもよらないことだ。

数年前のわたしは、トイレの回数まで減っていた。
子どもから目を離さないように、そう強く思いすぎていたのかもしれない。
一緒にお出かけしたママ友に言われて、初めて気づいた。

目の前の誰かが優しくない。
そう気づいたら、まず自分の内側に目を向けること。
それが一番の近道。

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