見出し画像

ひとりでもだいじょうぶ。なのに、少しだけ足りない。

前々回、前回と最近出たマッサージ系のイベントについて書いてきた。
今回もその続きを書いていく。

前回、わたしはひとに触っているといつの間にかチャネリングしてしまうようだ、と書いた。

触っていると、だんだん感覚が研ぎ澄まされていって、触っている感覚とその触れている物質だけになった気がしてくる。
瞑想で行き着く場所と同じところ。
目の前にひとがいるという意識は薄れていて、そこは静かな世界だ。
すると、不意にイメージが見えるというか現れてくるのだ。
わたしの場合、見ようとして見ているわけではない。

だから、もちろん何にも見えないときもある。
触っていて、なんかこのひとは表面しか触れない(少し内側の膜に当たる?)みたいなときもあって、それはそのひとが閉じているのかなと思う。
それだと、いい時間は作れない。
けれど、しょうがないのだとも思う。

見えたイメージが合っているか、わたしにはわからないし、触っているそのこととそのイメージの関連性も正直わかってない。

けれど、昨日はご本人にそのイメージを伝えたところ、それは一致していたらしく、わたしのコンシャスタッチでそれが癒されたような気がする、と感想をいただいたので、合っているのかもしれない。
たぶん、わたしにはわからなくていいし、本人にしかわからないものなのかもしれない。

最後、その日のコンシャスタッチの感想をみんなでシェアした。
いくつか気になるものがあったので、ここに備忘録として書いておく。

・普段は、自分で自分のケアをしたり、好きなことを体験したり、自己完結してそれでいいと思っていた。
けれど、今日ひとに触れて、温かくて、それを求めていた自分を知ったし、そう感じられてよかった。
・懐かしい感覚だった。
女性にふれる機会があまりないので少し身構えていたけれど、触り出したらそういう雑念が消えてしまった。
・何回も感情がこみ上げてきて、泣いてしまった。
・いつも忙しくて、こんな風に丁寧にひとに触れることを普段できない。けれど、こんな風に生きられたらと思ったことを思い出した。

どの感想も、わたしの中のどこかにあった気持ちだった。
けれど、思った瞬間に忘れてしまっていたり、口に出せなかったことだった。
「性」は、” 生 ”であり、” 正 ”であり、” 聖 ”なのだとあらためて思った。

ここまで書いて、書き忘れていたことを思い出した。
「触られた」側としての感想だ。

実はわたしは、ほかの方のように感情がこみ上げてきたり、泣いてしまうことはなかった。
普通に気持ちよかったし、ガードしていたつもりもないけれど、内側に触られた感覚があまりなかった。
ひまだったからか、瞑想状態にもうまく入りきれず何度か思考が走った。
普段自分ひとりで瞑想している方が入り込める気がする。
なんでだろう。

相手がプロだと違うのかな?
と思ったけど、半分くらいプロの方もいたし、それよりも相手との関係性とか大事なことがあるような気がする。

そうだ、そしてもうひとつ、コンシャスタッチで大事なこと。
テクニックや手順にこだわりすぎない、特にプロの人は ” 施術者 ” であることを忘れるくらいでよいということだ。
不思議なのだけれど、これはBIPSのワークショップでも同じことを言われた。 ” 施術者 ” は「べき」や「ねばならない」を忘れて楽しむこと、と。

どちらも、プロの方が参加するようなイベントだった。
そこに、普段会社員のわたしがしれっと参加できるのは、そういう前提があってこそなのだった。

そして、あらためて思った。
わたしが求めているのは、スピリチュアルでもなくて心理学でもなくてマッサージでもなくて、その全部の融合であり、すべての先にあるもの。

続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?