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似非エッセイ#18『すべての前日』

本を読んだ。

2016年に相模原の障害者施設で起きた戦後最悪とも呼ばれた無差別大量殺人事件についての本。
ある章で被害者遺族や被告の友人たちによる裁判内での証言をまとめられていた。
あまりにも突然に、そして理不尽に家族を奪われた遺族たちの憎悪と無念がこもった証言もさることながら、特に興味深かったのは被告の友人ら(元交際相手含む)の証言だった。
今回初めて知ったのだけど、この事件の犯人(死刑が確定し現在は死刑囚)は、事件前から多くの友人知人に犯行を仄めかす発言を繰り返していたそうだ。
その内容が非常に具体的だったのにまず驚いた。事件後に報じられた犯人が口にした動機や犯行の実態とほとんど同じ内容を周囲に話していたという。
それを受けた周囲の人間は、その発言の過激さに危うさこそ覚えたものの、まさか実行に移すとは思っていなかったという。
事が起きてしまった後を突きつけられた我々(世間)は、その時に周りが諌めていれば、と考えてしまうが、自分自身に置き換えてみたらどうだろうか。
もし仲のいい友人が、それに近い発言をしてきたら?
警察に通報する?だけどまだ何も起きていない。ただ過激な思想を口にしているだけだ。
間違いを起こさないよう様子を伺い、いざとなったら止める?
常にとなると現実問題それは不可能だ。
何より、『それ』が起こるまでは、『それ』がいつになるのかわからない。起こるのかさえも。
もしかしたら本人にすらわからないのかもしれない。
友人を疑ってしまったという罪悪感も邪魔をするはずだ。まだその時には何も起こしていないのだから。
どんな思想であれ、それだけでは裁くことはできない。思想は自由だ。

結論。
やはり僕は彼らと同じく、後に起こる事件を防ぐことはできなかっただろう。
まさか、あいつが、そんなわけがない。
誰だってそう思う。後からは何とでも言える。

本には犯人が事件を起こす直前に食事を共にしたという元交際相手の女性の証言もあった。
その女性にもやはり、以前から事件の確信に近い発言を何度かしていたそうだ。
それでもその日彼らが交わした会話は、ごく普通の知人同士の会話だった。

だけどその数時間後に事件は起きてしまう。

誰も彼女を責めることはできない。
だけど本人は事が起きてしまった以上、何も感じずにはいられないだろう。
もしもあの時自分が、、と。

この事件も含めて、世の中で起きたあらゆる悲劇には必ず『その前日』が存在する。
その時点ではただの日常だが、後に何もかもが一変してしまう一日。
これからも何処かで起こり続けるその一日が『何処か』ではなくなる日が来ないとは限らない。

この感覚を今の自分が上手く表現できないのがもどかしい。
だけどこの『いつでも起こりうる現実』にはこれからも向き合っていかなければならない。
そしていつか、必ず何かしらの形(今の自分なら小説になる)で表現したい。

そう強く思った。

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