風日記➃ ゴドーを待つ私たちとサステナビリティ
エストラゴン どうにもならん。
ESTRAGON Nothing to be done.
ヴラジミール いや、そうかもしれん。そんな考えに取りつかれちゃならんと思ってわたしは、長いこと自分に言いきかせてきたんだ。ヴラジミール、まあ考えてみろ、まだなにもかもやってみたわけじゃない。で……また戦い始めた。
VLADIMIR I’m beginning to come round to that opinion. All my life I’ve tried to put it from me, saying. Vladimir, be reasonable, you haven’t yet tried everything. And I resumed the struggled.
不条理演劇の傑作、ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、このような台詞で始まる。
夕暮れのさみしい田舎道。二人のホームレス、エストラゴンとヴラジミールが、ゴドーという謎の人物を待つ話。嚙み合っていない漫才のような、不毛な会話が延々と続く。しかもゴドーが何者なのか、なぜ彼を待つのか、何も明かされない。
「今晩は来られないけれど、明日は必ず行く」
少年がゴドーからの伝言を届けにくる。何度も。明日になってもゴドーは来ないかもしれない(と予感している)。それでも二人は再び同じ時間、同じ場所に集まる。ただ待つために。
希望は途切れながらも続いていく
ゴドーがGodに縮小辞-otをつけた名前だとすると、彼はある種の救いの象徴だと解釈することもできる。あるいは……何だろう?ホームレスの二人が待たざるを得ないもの。
望みは何だろう?
世界が変わること?終わること?生き続けること?死ぬこと?
この物語において重要なのは、ゴドーが誰/何なのかということでない気がする。
二人が、心底退屈し絶望しながらも、わからないものを待ち続ける行為そのもの。
そして観客も同じように待ち続ける。何かが起こり、ゴドーという答えが与えられることを。
たぶんそれこそが作品の大きな意図だ。
安易な答えが与えられない現実にもがきながら、意味を見出そうとする。議論する。
コミュニケーションの限界に気がつく。すれ違い、ぶつかり合い、誤解はつきものだと悟る。それでも話し続けなくては気が済まない。ふっと湧いて出る虚無感。閉塞感。それらをかき消し、まるで生を確かめているかのように彼らはおしゃべりを続ける。
ヴラジミール われわれが現在ここで何をなすべきか、考えねばならないのは、それだ。だがさいわいなことに、われわれはそれを知っている。そうだ、この広大な混沌の中で明らかなことはただ一つ、すなわち、われわれはゴドーの来るのを待っているということだ。(中略)でなければ、夜になるのを。われわれは待ち合わせをしている。それだけだ。われわれは聖人でもなんでもない、しかし待ち合わせの約束は守っているんだ。
VLADIMIR What are we doing here, that is the question. And we are blessed in this, that we happen to know the answer. Yes, in this immense confusion one thing alone is clear. We are waiting for Godot to come (…) Or for night to fall. We have kept our appointment and that’s an end to that. We are not saints, but we have kept our appointment.
ヴラジミール。ロシア語で、Vladi[統治する] mir[世界](邦訳の注に書いてあった。面白い!)。
待つというミッションを論じる彼は、名前の通り、この世界の状況をどうにかまとめたい願望があるのかもしれない。そうでもしないと、世界は壊れるからだろうか?待つことも叶わなくなる?あ、もしかしたら、彼は救われたいのではなく、救いたいのかもしれない。
本文冒頭に記した通り、この物語は絶望から始まる。「どうにもならん」。
でも「なにもかもやってみたわけじゃない」。
そうだなあ。飽きることなく、待ち続けよう。精一杯の暇つぶしをしていよう。
私は今日も、ゴドーを待つ。
つづく
《参考》
Samuel Beckett “Waiting for Godot – A Tragicomedy in Two Acts” (仏題:En Attendant Godot)
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』
《英文》The Norton Anthology of English Literature, The Twentieth Century and After, Volume F. 《日本語訳》安堂信也/高橋康也(白水社)
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