探求 第2章(心の中のことば編(8))
私は動物園で一頭のキリンを見た。
そのキリンのいないところで、キリンを思いかべる。すると頭の中に「キリンのイメージ」があるように感じられる。
目の前にキリンがいないのだから、頭の中にあるこの「ビジョン」は、キリンの「思い出(イメージ)」だと言いたくなる。
しかし思い浮かべた「そのビジョン」が、キリンだとどうして言えるのだろうか。
キリンを思い浮かべようとして、間違ってししゃもを思い浮かべてしまっていないと、どうしていえるのだろうか。
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別のキリン(「本物の」キリン)像をさらに思い浮かべ、頭の中でそれと比較して、非常に似ている、いや、完全に同じだ!と感じられるのだから、頭に描いているこのイメージは、やはりキリンなのだ。
するとその「別のキリン」が、黄色いなにかではなく、本当にキリンなのかという同類の問いが発生するだろう。
以下、繰り返し。
このように「頭の中のイメージ」は「心の中のことば」と同様の困難がつきまとう
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目の前の人が、高橋さんだと思って名前を呼んだら、別人だった。わたしは人を間違えてしまった。
頭の中でキリンの「イメージ」を思い浮かべようとしたら、つい間違えて、ししゃもだった。わたしは想像を間違えてしまった。
なぜ後者はナンセンスなのだろうか?
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思い浮かんだ内語を単語にして書き表す、という心理実験を考えてみよう。
このとき、あなたは本当にその単語に対応する内語を心のなかで話したのか、という懐疑は実験の中で発生しない。そのように疑った場合に「実はそうでなくこちら」という検証ができないからだ。
この実験では内語の結果として提出された単語を、ただちに正しいものとして扱う以外に選択肢がない。
というよりも、そういった選択肢はそもそも検討されもしない。なぜなら内語の疑い得ない確からしさは、ここでは心理実験を成立させるルールだからだ。
被験者は何かを思い浮かべる表情をし、単語を書き、提出する。それだけだ。
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「内語」という単語があり、それについてわれわれが何かを言えるからといって、それに対応する脳の処理プロセスが存在すると考えなくてはならない論理的な必然性は存在しない。
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