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探究 第3章(できません編(6))

「私はこれまで火星に行ったことなんてない」

私がこの信念を疑おうとするなら、何を犠牲にしなくてはならないだろうか?

例えば異星人によるアブダクション被害といったミステリー番組を見て
「本当に火星に行ったことがないのか? 君の寝ている間に連れ去られて起きる直前に戻された可能性は?」
などと言う場合。

「我々は、地球で生きていると思わされているが、実際は火星の保育器で育てられており、やがてエサになるのだ」云々。

ここでは「疑うことに対して支払うコスト」がたいへん高くつく。
その疑いを認めることで導入される多数のフィクション。異星人、飼育される人類、宇宙戦争。

対してその疑いの否定をようやく証明できた際に得られるメリットの無さ。「確実に火星に行ってないと分かったからって、だから何?」

この「疑うことのバカバカしさ=コスト高」は「確からしさ」を生み出す要因の一つになりうる。

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「私には確かに腕がある」

私がこの信念を疑おうとするなら、何を犠牲にしなくてはならないだろうか?

一見するとこれも最初の疑いと同等の、バカげたコスト高の疑いのように見える。しかしもし幻肢痛といった現象を想定するなら「確かに腕がある(これは幻肢痛ではない)」と改めて自分に確認することには意味があるかもしれない。

あるいは激しい交通事故に巻き込まれ、目覚めた後に自分の身体を改めて確認する時のような疑いの在り方。

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心の中で「おーい」と自分に呼びかけてみよう。そして「自分は本当に今、自分に呼びかけているのか」と疑ってみる。

すると、この疑う行為の周囲には、疑いを晴らすこと、証拠を示すこと、第3者に判断をゆだねること、そういった一連の連鎖がすっぽり抜け落ちていることが分かる。

行った先が崖であるような道。これら一連の不在もまた「確からしさ」を生み出す要因になりうる。

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しかしこうも言えるだろう。20歳になると「成人式」なる儀式を行う種類の哺乳類がおり、その式では各々が心の中で「私はこれから清く正しく生きてゆきます」と自分に言い聞かせなくてはならない。この掟をやぶった者は成人とは認められず、多くの社会活動に参加できない。

その場合、まず最初に
「君は心の中で本当にそう言い聞かせたか」
と疑うことには正当性があるだろう。そしてその言い聞かせの存在証明として、買い物でおつりを意図的に多く渡して、お釣りの多さを正直に申告するかどうかの「ドッキリ」を仕掛けてテストする文化があっても良いだろう。

これはつまり、心の中のことばを、外部から観察可能な行為に短絡する経路が、この社会に組み込まれているということだ。

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疑いには「バカバカしいもの」「常識を激しく揺さぶるもの」「言語として限界的なもの」など様々な種類のタイプがある。しかしいずれにしても我々はその「疑い」が「有効に働きうるストーリー」をいつでも考案できる。

つまり「疑い得ない」問いは、いつでも、「正当に疑える」問いへ変化させられる。ストーリーの想像によって。あるいはこれまでの言い方をすれば、「言葉のアスペクトを変貌させることによって」。

するとここにあるのは、疑うことの原理的な可能・不可能性ではなく、我々のストーリー制作能力の程度の差ということになる。

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そこでこう問いたい。もしストーリーの創造に際して「困難さ」という程度の違いがあるならば、その困難さを極端に増していくことができるだろう。では、それができるのならば、困難さ程度の極限に「創造の限界線」はあるのだろうか?


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