探究 第3章(心の中のことば編(9))
言語の洞窟。
人:「自分は確かに心の中で言葉を話している!」
哲学者:「でもその言葉は(他人である)私には聞こえない! ほんとに君は心の中で言葉を話しているのか?」
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注意して欲しい。
その内語が聞こえてくる*可能性*が少しでもあるのだろうか?
可能性が少しもないことがらの可否を問うて、その人は何を期待しているのだろうか。
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ここで脳科学が発展して、人が内語を行っている際の脳波を詳細に観測した結果、発している言葉と脳波のパターンが実証的に100%対応できるようになったとしよう。
すると「ついに他人の内語を聞けるようになった」と言っも良いだろうか。
良いかもしれない。良くないかもしれない。
重要なのは、この場面で「良い」や「良くない」を判断する基準が、そもそも「内語」については存在しないということだ。
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内語に関する話しの錯綜は、このように、閉ざされている言語的な可能性に対して、科学知識がいわば横からカウンターを食らわせる可能性が常に開かれていることに起因する。
言語の洞窟の中で、「内語の道」は、今日この時点では目の前がふさがっている。崩して進もうとすれば哲学になる。
洞窟は絶えず変化する。新しい哲学の問答や科学知識の拡充によって。
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