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この街(コザ)のこと その2

前回の続き。

前回は伝聞調でこの街(コザ)のことを書いた。「~と言われていた」「~と聴いている」。それもそのはず。私は1960年代~70年代のコザ市時代をしらない。私は民宿の主の仕事の傍ら、「コザまちまーいガイド」としてこの街の観光ガイドとしても活動している。その活動の中でこのコザ時代のことは自分なりにも勉強したつもりだ。

私の出身は長崎県。1987年、およそ30年前に大学進学で沖縄に来た。なのでそれからの沖縄しか目にしていない。その頃は大学の近くの宜野湾市というところに住んでいたので、コザはたまに遊びに来るくらいだった。買い物や映画、デートは那覇、夜遊びはコザといった風にその頃もそれなりに賑わっている街だった。また音楽系のサークルに入っていたのでCDやレコード、譜面などを買うのにコザは楽器屋もたくさんあった。

那覇の国際通りは観光客向けだったり山形屋のような地元向けの百貨店だったりの日本人向けの雰囲気だったが、コザは地元の人向けのゲーセンなどもあったが、米軍人向けのおみやげ物屋(漢字が書かれた湯呑や博多人形チックな人形、忍者グッズなど)もあり雰囲気はやはり外国チックだった。特に中央パークアベニュー(トップ画像に使用しているストリート)にあるチャーリータコスというお店でメキシコ料理のタコスを初めて食べたが、この世にこんなに美味いものがあるのかと、長崎の片田舎で魚ばっかり食べて育ってきた私は沖縄で味わう外国の味に感激した。私のグルメ遍歴がそこから始まったと言っても過言ではない。沖縄グルメには一家言ある人も多いが、私のタコスのスタンダードはチャーリータコスである。創業1956年というコザのレストランでも老舗中の老舗。オープンしたと思ってはいつの間にか閉まっているお店の多いコザの中央パークアベニューにありながら、その歴史は今後も刻まれていくだろう。

その後、就職のため沖縄県外に赴任したが、それ以降沖縄から聞こえる話題は嘉手納基地の黙認耕作地にF15戦闘機が墜落したり、そして思い出すのもおぞましい1995年の海兵隊員による少女暴行事件だったり。基地あるが故の苦しみはコザ時代以降も続いていた。

10数年の後、沖縄に帰ってきた私はなにかに呼ばれたかのように沖縄市で2003年に民宿「ごーやー荘」を開業した。本当はその頃賑わっていた北谷町や海のそばの読谷村で物件を探していたが、手頃な古民家を紹介されたのが沖縄市だったのである。交通も(車なら)便利だし繁華街も近いし、ということでここに落ち着いたが、中央パークアベニューなどの通りは残っていたが人通りは寂しくなっていた。北谷のアメリカンビレッジに店も人も移ってしまっていた。またサンエー具志川メインシティやジャスコ具志川(現イオン具志川)など近隣の郊外型大型店舗にも客足を奪われていた。

ごーやー荘がオープンしたのと時を同じくして、ドリームショップやチャレンジショップという街の活性化の企画で1年間の家賃補助がでるということで店舗のオープンもラッシュだったが、どの店も5年ともたなかった。もたなかった店もあれば、ここである程度客がついて別の場所に移った店もあった(現在でも頑張っているバンブーカフェというお店もある)。

こんなシャッターが開いては閉まりを繰り返す街だったが、いざ週末の夜ともなると米軍兵向けのライブハウスだったり、地元の人がほろ酔いで二次会に集う民謡酒場だったり、さらりと見渡すだけでは見えてこない「ディープな」面白さがそこかしこにあり、私はこれこそがこの街(コザ)の真骨頂と考え、お客様を夜遊びに連れ出したりしてコザの楽しさをアピールし、リピーターとしていつか帰ってきてくれるように願っていた。

そして2006年にコザ・ミュージックタウンがオープン。音楽のまちのランドマークとなり、年間通して数多くのメジャーアーティストのライブツアーなどが行われている。そして2007年には「エイサーのまち宣言」をし、沖縄の夏の伝統芸能エイサーに関する数多くのイベントが行われている。

そしてうちのお客様でも音楽やエイサーでコザの楽しさを知った人がリピーターとなり、年間通して「帰ってきてくれる」ようになった。しかし、ライブやイベントの時などは賑わうが、平常の時にはまだまだ寂しいものがある。

(つづく)

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