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北坂戸、マクドナルドにて

埼玉の坂戸市。北坂戸駅前のマクドナルド。朝の9時にホットコーヒーを注文、そのまま12時、15時、18時と、その一杯で延々粘るつもりが、店員の目が気になって、大体2時間後くらいに野菜生活を注文する。これで今日は200円使ってしまった。これも自分への自己投資だと言い訳しながら、気分は少し憂鬱になる。というのも、当時22歳の頃は、月末は特に極度の貧困のため、一日100円生活を余儀なくされていたのだから、そこにきてマクドナルドで200円使うなど、随分チャラついた話だった。食事は具無しお好み焼き、又はキャベツを入れたお好み焼きを大量にストックし、冷凍庫に保存。一日3〜4枚をチンして食べる。飽きてくると、激安スーパーで3袋100円で買ったカレーなどを、途中にはさむ。
そんな貴重な野菜生活を、1時間おきに一口飲みながら、独学ながら、お粗末な小説を書いていた。
当時自分は重度の“絵が描けない病”(またいつかお話しさせて下さい)を患っており、絵を描くことに喜びを持てなくなっていた。
それでも、藁をも掴むような創作への意欲は沸々と湧き上がり、その当時近所の図書館で過去の芥川賞受賞作を初期から順に読み始めたことがきっかけだと思うが、自分も早速ボールペンと大学ノートを買った。こんな安上がりで作品が作れるなんてラッキー!と、不届きな事を考えていた。
が、当然そんなに上手くいくわけもなく、今も大して変わらないが、散らかった文脈と、登場人物達の棒読みのような会話に、後日忘れた頃に読み返して一人で赤面した。


それでも今の自分には、文を連ねるという生存方法しか残されてないのだと、なんとかこの作業が面白いと思えるようになる方法を探った。
絵を描いていた経験から、対象との内的な距離感を思う事や、キャンバスの前での一筆目から、これで終わり!と思えるまでの、とあるプロセスなどが身に染み付いていたこともあり、それを頼りに大学ノートにしがみ付いた。
マクドナルドに行けるのは、バイトが休みの日だったので、週三日くらいだった。通っていたキュレーションの学校は週4〜5日だったと思う。夜間だったので、マクドナルドには17時くらいまでいる事も多かった。22歳から24歳までの2年間程、それを続けた。

絵を描いていて、実際の自分の思いというより、手が自然と動くという経験があって、ある時から、文章を書いてる時にも、それと似た感覚になる事があった。文章を生業としてる人からすれば、思い上がりかもしれない恥ずかしい話だが、その時初めて、文章を書くことで何かを掴んだ気がした。

まだ誰にも見せていない、未完成の話がある。それはマクドナルドで書いた、最後の話だった。何故未完成かと言うと、とりあえず最後まで話は完結して、そこからある一定の収穫を得たと感じたので、校正をすることに飽きてしまったからだ。
一定の収穫とは、書き進めていくなか、物語の最後辺りで、その話の核心を一言で表す言葉が出てきたのだが、その言葉が当時の自分に与えた気付きが、とんでもなくデカいものだった。
それは、昼と夜で街の様相が変わる国を旅する、ある男の話だった。


マクドナルドでは、駅から流れ出てくる人の群れを眺めたり、店内で気だるく話す学生達を観察したり、子連れの奥さん達の会話を聞いて、意味なくメモしたりした。警察が店内に入ってきた時、そこから話を膨らませて、世界の滅びる話を作った。

ある時、5〜6人の若い団体客が入ってきた。彼女達は、プール帰りなのか全員髪がしっとり濡れていた。まだ中学生か高校生くらいに見えた。店内は、陽が柔らかく差し込んで、彼女たちの席の辺りはちょうど陽だまりになっていた。
彼女達は、手話で会話をしていた。その柔らかで滑らかな指の動きに、静かな店内の中で、思わず見入っていた。

障害を持つ人が日頃何を思い、何を感じているのか、健常者との違いはどこにあるのだろうというシンプルな問いは、その後、埼玉から実家に戻り、福祉施設へ半年間ボランティアへ行くきっかけになった。今思えば、それは自分なりのフィールドワークだった。


今の妻と、まだ付き合っていた時、マクドナルドで最後に書いた小説のことを少し話したことがある。まだ未完成だけどね、と。
彼女は、完成させてあげないと、話の中の登場人物達が可哀想だよと、当たり前のように言った。ハッとした。確かにそうだ。

次に実家へ帰った時、あの大学ノートを引っ張り出して、最後までしっかり書き上げようと思う。


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