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軽さと重さの間にあるものは

軽さに惹かれている。
と言うと、だいぶイメージ寄りの話になってしまう。

元々、自分は空気の重たい沼のような場所から、世間をチラ見しているタイプの人間だと、どこかで自覚している。なので楽な呼吸法を求めて、軽さを貪っているのではないかとすら思う。

本格的ですね!アーティスティックですね!などの言葉が純粋な褒め言葉には聞こえず、相手との間に存在しているかもしれない分厚い壁が、本格的という言葉によって、くっきりと実存化されてしまう気になった。

それなら、ますます変わった人だと見られかねない、こんな変な文なんて書かなければよいのだが。
僕は最近、人から「変わってますね」と言われると、顔では笑って、内心ヘコんでいる。

なんてここまで書いておいて、0歳と2歳の息子達が、今の目の前のことにひたすら素直で、全力で泣いたり笑ったりしている様を見ていると、この人たちはなんと濃い時間を生きているのか、軽さ・重さという事象の性質自体に気を取られていることが、野暮なんじゃないかという問いがムクムクと膨れ上がる。
もちろん彼らにも軽い・重いを感じる感受性は既に備わっているし、空気も読む。だとしても、自然体でいることの楽しさを、子供達は教えてくれる。

最近、造花が気になる。
作家さんが作るオリジナルの独創的な造花作品も素敵なのだが、それと同じくらい、大量生産される造花に、不思議な面白みを感じている。
思うに、作者の作品としての意図などは恐らく無いであろう(と思われる)事が、グッとくる。

造花専門店などをうろうろしてると、語弊のある言い方になるが、個人的にはクオリティの低い、お値段で言えば安い造花の方が、目に留まる。
今は本物とも見間違うようなハイクオリティの商品もあるのだが、それよりも作りの粗い、ゴムの匂いのする、カラーリングにもムラのあるものの方を、思わず手に取ってしまう。

他にも、染めた花が気になっている。
花に色を吸わせ、わざわざ自然物へ人工の液体を投与し、例えば原色のピンクや黄色や青、他には虹色や、くすみカラーに染め上げられたものもあって、「欲しい色の花が無ければ作ってしまおう!」というポップなノリを感じ、キッチュな人間のエゴイズムの香りがぷんと漂う。
それがなんだか可笑しくも人間臭さを感じ、「え、これも染めちゃったの?」「この染め方エグいな〜」なんて思わず笑ってしまい、ふっと肩の力が抜ける。

この、ふっと肩の力が抜ける時に「軽さ」を感じる事が多い。

軽い・重いという感覚には、やはり今自分が置かれている環境や、その前後に何があったのかが強く影響しているのだと感じる。

造花や染め花に軽さの魅力を感じて、それを取り入れてみたいと感じるのは、自分が普段花のことを重く考えていることの表れなんじゃないかとも思えた。

また、近頃とくに軽さのようなものに目がいくのは、特別感や一点物といった、重さのようなものばかりを偏愛する作り手への、ちょっとした反発心もあるのだと思う。

軽さと重さの間にあるものは何だろうかと、ぼんやり考える。

軽さと重さを移ろう「間」、文章で言うところの行間には、きっと途方もない「何か」が込められている。
その移り変わりの最中は、一切の事を考えたり論じたりする事は無く、言葉も忘れて、ただ圧倒的な情報としてあちらからやってくる「何か」に身を委ねることしかできず、次に我に帰った時には、もう事は済んでいる。

もし、そんな「間」を、リアルの場所に求めるなら、そこはきっと理屈を全て忘れる事ができる、感覚100%になれる場所、ということなのかもしれない。
例えるなら自然の中、「海」や「山」のような場所か。

息子達は今、そんな場所にいる。

もし息子達が見ている景色を再現できたら、それは自分が憧れとする場所の形に近いのかもしれない。


だいぶイメージ寄りの話になったので、この辺りでおしまい。
いつもグダグダした話を読んで頂き、有難うございます。

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