暇な時なにしてる?|余暇を考えることは、自分の生き方を考えることでもある
2度目のコロナ感染
なんとまぁ、2度目のコロナに感染してしまいました。
かかったことのある人はわかるかと思いますが、コロナって回復遅いし、倦怠感がすごい。発熱してる時ももう死にたい…というくらい苦しいんだけど、でも普通の風邪なら熱が下がれば回復感があるものじゃない?
それが感じられないのがコロナ。あーもう嫌だ。
感染するから外も出歩けないし、気持ちが滅入る。活字を読むには頭が痛いし、こんな時に便利なのは動画。というわけで、3〜4本くらい映画を観ました。
でもね、やっぱり映画って映画館で観るべきだなってつくづく思いました。とりあえずコロナの苦しさを紛らわせるためだったので、軽く見られる作品を選んだせいもありそうだけど、なんだかあんまり観る前と後での感じが変わらない。作品も時間も消費したような感じがします。
映画館という発明
映画館に入ると、映画を観るぞという体勢になって映画を観るじゃないですか。きちんと映画に向き合って観られる感じがいいんですよね。
日常から一線置いて作品を純粋に楽しめる空間。
美術館も似たようなところがありますが、映画の場合は暗闇という没入感、他者から介入されないためのマナー、そしてさらにそれがエンターテイメントとして成り立つのだから、すごいです。まさに発明だと思うのです。
映画だけじゃないけれど、受け取る側にも受け取るための力や環境って必要。自分を棚に上げてと言われそうだけど、そういう感覚や感触みたいなものを蔑ろにしてしまったら、人間はどんどん機械みたくなっていくのでしょうね…。
効率化や合理化がいろいろなところで求められ、仕事だけでなく生活のエリアでも「無駄は省きたい」となりがちです。でも、それを突き詰めてしまうと、生きる意味みたいなものはすっかりなくなりそうです。
日々のことをいかにこなすか、が重要事項になってしまい、そうなってしまうと生きることってけっこう空虚です。
総中流社会というやつなのか…
観た映画の1つに、18世紀のフランスを舞台にしている映画がありました。
当時のフランスでは、料理は貴族たちが楽しむもので、味のわからない庶民にはもったいないという考え方が、貴族側にはあったそうです。
だからといって、生きることに直結する「食」を取り締まるのはどうかと思いますが、受け取るには、受け取るだけの経験や感性も必要というのは、まあ一理あるとは思いました。
わたしの所属しているNPO法人れんげ舎の活動で、様々な一般常識のルーツを研究しています。その中でいろいろな本を読みましたが、日本であれ、ヨーロッパであれ、一昔前の庶民層は、生活のためにやることで毎日がいっぱいです。余暇があるのは、上流階級の人たちです。
でも、現代ではほとんどの人に余暇があります。つまり、生きていくためのことに直結しないという意味で、余計なことをやる・考える暇が、誰しもにあるのです。
これは、よく考えると、なかなかに恐ろしいことでもあると思うのです。
余暇=自由な時間だとすると、個人個人が「何をするか」ということを自力で考えなければいけないのです。
余暇について考える
わたしの娘が小学生だった時、夏休みに1日中ダラダラしていたことがあり、「何かしたら?」と話しかけたことがありました。娘からは「することない」という返事が返ってきました。
もちろん毎日そうだったわけではないので、たまにはダラダラするだけの日があってもいいと思いますが、問いかけてはみたものの、特にやることを提案できなかったのです。
レジャーやゲームのような時間を潰すだけのようなものも嫌だし、リラックス系もたまにならいいけれど…。自己投資みたいなものも、その先に目的がないなら意味ないし。なかなかに難しいです。
余暇について考えることって、もしかしたら自分の生き方を考えることでもあるのじゃないかと思いました。生き方というと、職業や働き方、ライフプランのような進路を考えがちですが、将来なにが起こるかなんてわからないし、しかも今世の中にあるものからしか選択できないのだとしたら、適正だってわかりません。
未来のための「今」を考えるのではなく、「今」だけにフォーカスすれば、自ずと「今」を土台にした未来になるはず。
そういう意味でも、仕事とか生活というカテゴリーから考え始めるのではなく、それらから離れた「余暇」をどうするかから考えはじめるって、けっこうよさそうです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?