日々を綴る(16)
斜里で先週、朗読会のイベントがおこなわれていました。
会場は自宅からも職場からも近いところにあって、開始時刻は18時。仕事のあとに直接会場に向かおうと思っていたけれど、いろいろあってそのまま職場からライブ配信を聴くことにしました。
コロナ禍を経てよかったなあと思うことのひとつは、オンライン配信が増えたことだと思っています。もちろん現地で聴く音とか感じる温度とかには敵わないのかもしれないですが、アーティストのライブにしてもトークイベントにしても講演会にしても、地方在住の身としては負担が少なくてとても助かっているし気軽に楽しむことができています。
当日わたしは耳にイヤフォンを突っ込んでライブ配信を聴きながら仕事をしていました。有線なので、動く必要があるときはときおりそれを外して、また席に戻って着けて…と繰り返していたので、最初から最後まで全部を聴くことができなかったのですが……と、いま書いていて、あれ?と思いましたが、PCじゃなくスマホでつないでいたら、有線イヤフォンでもスマホをポケットに入れて動きまわって作業しながら聴けたかもしれません。
ただ、きっとアーカイブが残るだろう、という根拠のない自信も少しあって、実際翌日にはアーカイブがアップされていました。ありがたいと思いながら、聴き逃した部分の中でいちばん聴きたかった、最後の方にカーソルを合わせます。
この朗読会は、〈一般の人から「文書」を募り、主催者のひとりが即興の音楽をBGMとして演奏しながら、その文書をもうひとりの主催者が読み上げる〉という、ラジオのような朗読会でした。特に決められたお題はありません。長い文章でもいいし、詩でもいいし、SNSに投稿しようとして下書きに残したままの言葉でもいい……そんな、ちょっと変わった募り方をしていました。
わたし自身も過去の日記を読み上げていただいて、目で文字を追いかけながら「読む」のと、耳を傾けながら「聴く」のではずいぶんと受け取り方や自分の中での処理の仕方が違うんだなあ、と、ごく当たり前のことかもしれませんが、そんなことに気が付きました。
それで、いちばん最後に読み上げられた文書ですが、耳で聴くと1分もないくらい…でしょうか。目で文字を読むのであれば30秒もかからないくらいの短いものでしたが、聴きながら、どきりとしました。
そしてなぜか、「いま聴いたものを書き起こしたい」と急に思い、カーソルを戻して聴き直しながら、Wordの画面上に書いていきました。
いま振り返ってみれば紙とペンで書くのもよかったかもしれませんが、そのときわたしは「これは縦書きがいいな」と思って、縦書きで文字を書くのが苦手なので直感的にWordを選んだのかもしれません。
BGMの音楽の雰囲気と、耳から聴こえてくる言葉のトーンや間、あとは文脈から、自分のイメージで文字を並べていきます。
文書という形を通じて読み上げられている誰かの言葉や気持ちを、またわたしが文書化する。朗読会を利用して勝手に変換をしているとも言えるので、褒められたことではないように思います。正直、その文書が知人のものであることを知っていたから、きっと怒らないだろう。と思い、甘えさせていただいたところもあります。
本人が最初に書いた文書がどうなっていたかは、わたしは知りません。なので、カギカッコをつける位置や句読点の使い方、改行の位置、漢字にする?ひらがな?…など、想像を巡らせながら書き起こしていたのですが、そうしていると、言葉たちが自分の中により深く染みわたるような感じがして、ぐっとこみ上げるものがあり、内容に共感できるとかそういった類のものではなかったのですが、どこか少し感傷的にもなったりしました。
それは決して嫌な感覚ではなく「聴くという行為を通じてこういう受け止め方もできるんだなあ」と、小さな発見ができたような、そんな感覚。
不思議な、面白い朗読会でした。