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ネットフリックス「ELI/イーライ」はなぜ途中からホラーじゃなくなったのか? 映画考察・分析

こんにちは。グルメピエロ@ホームです。
NY在住、映像の仕事をしています。おうち時間が増えたので、家で見た映画について感想などを書いてみようと思います。

今回はネットフリックス映画の「ELI/イーライ」です。ネットフリックス内のジャンルとしては「ホラー」に分類されています。

あらすじ(オフィシャルより)

自己免疫疾患の息子イーライを治療するため、最後の望みを賭けて無菌の邸宅に引っ越してきたミラー夫妻。ところが治療が進むにつれ、イーライに怪奇現象が起こり始める。初めは副作用の幻覚と思われたが、次第にこの家に潜む邪悪な存在が明らかになっていく...。

予告編

感想

 学生映画のように自由に映画を作っている印象。何かかましてやろうという気概や物語の作りに挑戦は感じたし、映画史への敬意を出している部分も感じた。ただ、一番大事なのは「観客が見終わった後に何を感じるか?」という部分だ。普通の観客であれば、この映画を見終わった後に頭を抱える。人によっては見終わった後に後悔すら感じると思う。「時間の無駄だった」と・・・。そこには構造的な問題があり、その根底にあるのが学生映画の延長線という部分だ。それを解き明かしていく。

構造(以下ネタバレあり)

 この映画は大きく2つのパートに分けられ、全く別のジャンルの映画として作られている。前半はホラー映画。謎の病気に冒されなんとしても治りたい主人公と、それを救いたい両親、本当に救えるのかだろうか?信じられるのだろうか?という思いを抱かせる病院の人たち。登場人物は限られていて、状況は分かりやすい。ホラー映画に欠かせない存在「無知な人」を母親で描いている。見ている人に、「お前気付けよ!息子のことを思うなら怪しさに気付けよ!」と視聴者の思いと逆に行動する存在だ。
 母は息子の病気を治したいために前のめりになっている。そのため病院の人たちの意見を飲み込む。また、厳格な父に路線変更は見られない。辛い状況で信頼できるはずの両親から遠ざけられ孤立。独りで行動せざるを得なくなる。そこへ幽霊が登場。主人公はさらに混乱し狂っていく。

 前半の作りとしては、ホラー映画の作りをしっかりと踏襲した堅実でいて見ていてワクワク感を抱ける作り。しかし、この先に大きく分けて3つの問題がある。

問題①

 まず1つ目が少女の存在。病院に閉じ込められた主人公にとって唯一の外界との接点となる人物だ。主人公に「この病院は何かおかしい?」と思わせるためのキャラクターだが、正直なところコイツが出てきたことで、「どこからきた?片田舎の設定なのに簡単に何回も病院へやって来られるのはなぜ?」と、見ている人に物語が進む先のことを想像させるのではなく、要らぬ疑問を沸かせて観客の思考を散漫にしてしまった。
 主人公に「気づき」を与える存在は何も人でなくてもいいはずなのだ。それをこの物語ではうまく描けていた箇所もある。主人公が暮らす病院は外界から隔離された空間。「中へ入れない虫」というのは劇中で何度も描かれている。物語の転機となる部分で主人公は虫が病院中へ入り込んでいることに気づく。これは映画として状況の変化がひと目で分かる良い「気づき」の表現だと思う。この表現ができるにも関わらず、この少女を描いた理由がわからない。いなくても成立したはずなのだ。

問題②

 2つ目がジャンルの変更だ。後半部分では、主人公が実は悪魔でそれを退治するためにこの病院があるという物語に急展開する。ホラーからファンタジーにジャンルが変更された感じだ。おそらく作り手が一番気に入っている部分はここであり、映画のアイディアのスタートもここだと思う。ただ、これが裏目に出た。その理由が、急なジャンル変更による観客のテンションの急降下だ。観客はホラーとして見ているためにかなり前のめりに、時には恐怖で手で顔を覆いながら見ていたはずだ。それが、少年は実は悪魔。敵だと思っていた病院は悪魔退治の人たち。親も少年は病気ではないことを知っていた。という種明かしが矢継ぎ早にやってくる。少年に感情移入して見ていた観客は恐怖の対象がなくなり、観る視点を失ってしまう。見方が分からなくなった後は惰性で主人公の暴走を見届けることになる。
 ただ、この変更が完全に悪いということではない。むしろ挑戦を感じたのはこの部分だ。だからこそここへ至る部分を大切にして欲しかった。そうすれば結果は少し違っていたはずだ。

問題③

 後半を大切に描くために重要だった部分、それが問題点の3つ目「転換」の部分だ。今まで襲ってきた自分にしか見えない幽霊は、もしかしたら味方かもしれないと思う部分。「いやいや、そう簡単に味方とは思わなくないか?」「さっきまで幽霊に対して発狂してたよね?」と私は思いっきり躓いた。これがいわゆる作者のエゴだ。作者が主人公の気持ち(=観客の気持ち)を置き去りにして物語を進めてしまったという部分。
 物語を描く上で正直この部分が一番難しいのは重々承知だ。派手にすれば良いわけでも、丁寧にし過ぎれば良いわけもない。今回のケースだと、この転換がスッと行き過ぎたせいで前半と後半部分に段差が生まれてしまう現象が起きた。この部分をいかにしっかり描くかが良い作品と時間の無駄と感じてしまう作品の違いだった。

まとめ

 観客としては、これまでに記した通りだが、映画人を志した身としては、「このレベルの物語でもプロで食えるの?」という苛立ちと、「何を言われてもやっておけば良かったな」という後悔をこの映画を見て感じた。アイディアで押し切り、勢いで作る。「誰のため?なんのため?」を置き去りにした思いの結晶。個人的にはなんだか自分のいる位置がむず痒くなるような作品だった。

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