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「完璧な師」と呼ばれた人

内田樹氏のレヴィナス論3部作は、昨年の2022年4月に第3部「レヴィナスの時間論 『時間と他者』を読む」が発行されました。できれば文庫版で入手したいのですが、まだそんな段階ではなさそうです。

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内田氏の前2冊「レヴィナスと愛の現象学」「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」では、シュシャーニという人物のエピソードが時折り紹介されます。レヴィナスは、彼だけを「わが師」と、しかも「完璧な師」とまで呼んだそうです。

「完璧な師」とは、いったい何でしょうか。ふだんはそんな言葉を思いつきもしません。そもそも先生ってそんなにえらい存在だったでしょうか…?
私も以前、宮台真司氏の集中講義で、彼の講義のスピードと範囲の広さに圧倒されたことはあったけど、それきりだった気がします。

でも社会人になって「この人にはかなわない、でもこの人の言葉や考え方をぜんぶ知りたい」という人は一人いました。知識量、スピード、バイタリティ、どれも追いつくことが不可能なほどの人物です。あの頃の強い感情や「欲望」を掻き立てられる感覚が、いまでも自分のなかに残っているのを感じます。そして数年経って、彼をひそかに「師」と呼びはじめたのでした。

それをもって「完璧な師」とは何かが分かったわけではありません。
ただ、自分の体験を通じて考えてきたことを話す機会は、時々出てくるものです。たいてい個人的な対話でしたが、聞いてくれた人がとても新鮮な印象を持ってくれることもありました。その人は、もっと知りたい、もっと聞かせてほしいと望まれるのでした。

もし持論を人に語って「すごいですね」なんて言われたら、自尊心がくすぐられるでしょう。そりゃ、確かに少しいい気にはなるのですが、すぐさま「勘弁してほしい」「私がすごいのではないんだ」と弁解がましくなるのです。

私の育ててきた持論は、内田氏の著作や、自分が「師」と呼ぶ人の考え方を借りてきたものに過ぎません。それに、彼らの考え方を正しく理解できているとも思えない。その時にいだく気持ちは、渇望や不足感だけではなく、羞恥心すら混じったものです。私はとうていあの人たちに追いつくことができない、という哀しみでもあります。

聞いてくれた人のまなざしと私の哀しみとを同時に思い出したとき、「師」の姿が少し具体的に理解できるような気がした、それだけのことです。

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内田氏は、シュシャーニ師の姿を、レヴィナスともう一人の弟子、エリ・ヴィーゼルの著書からも引用します。

だれひとり、彼の名前も年齢も知らなかった。もしかすると、そんなものはまるきり持っていなかったのだ。通常のばあい人間を定義するか、あるいはすくなくとも位置づけるものが、彼にとってはあらずもがなだった。彼はそのふるまいにより、その知識により、多岐にわたり、かつたがいに矛盾する立場決定によって、自分は未知のもの、不確定なものを具現化しているのだ、と主張するのだった。(…)彼は自分のことを語るのに、目も眩むようなことしか言わなかった。然りと否とが等価であり、善と悪とが同じ方向に進むのだった。彼は一挙動で、同じ手段を用いつつ、みずからの理論を築きもしたし破壊もした。

(エリ・ヴィーゼル『死者の歌』村上光彦訳、晶文社、1986、p151-152)

その師の圧倒的な論証の才にヴィーゼルがひとこと賛嘆の意を表すと、師は激怒したそうです。

美しい答えなどなにものでもないのが、いったいいつになったらわかるのか。わからんのか、まやかし以外のなにものでもないんだぞ。人間の中身が定められるのは、彼を不安にさせるものによってであって、彼を安心させるものによってではないのだ。(…)神は動きを意味しているのであって、説明を意味しているわけではないのだからな。

(同書、p156-160)

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内田氏もまた、師とは何かを説明しています。

師が師として機能するためには、(多くの教師が実際には誤認していることだが)実際に強記博覧である必要もないし、弟子に敬意を強要する必要もない。そうではなくて、「わが師は大洋的叡智の持ち主であり、私の学知などそれに比すべくもない」と哀しげに「それが意味するものを取り消す」だけでよいのである。その取り消しの身ぶりによって、彼はその弟子の欲望に点火することになる。師は執拗に、おのれの師に引き比べたときのおのれの無知無能を言い立てなければならない。この執拗さが師であるための必須の要件の一つなのである。

(内田樹「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」文春文庫、2011、p139)

師は、弟子に対して2つの役割があるようです。
一つは、弟子が目指すべき知の方向を示してやること。そしてもう一つは、自分はその知の方向に向かうための方位磁針となること。
師はその人自身が「えらい」から師になるのではなく、弟子が選ぶことによって初めて師となるだけなのです。つまり「私には師がいる」と弟子が言ったとしても、師は「私には弟子がいる」とは決して言えないのかもしれません。

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弟子にとっての他者は、まず「師」なのでしょう。そして師・弟子両方にとっての他者は師の「師」ということになります。

ここには、おそらく内田氏の3作目に通じるヒントがあると思います。もう10年以上前から、3作目は「時間論」になると宣言されていました。内田氏がレヴィナス論としてこのテーマを扱う以上、レヴィナスー師ー他者ー時間というつながりは確実に扱われるのではないかと思います。
(読んだ際には感想を書くことにします)

もとよりレヴィナスのテーマには「他者」が大きな位置を占めているのですが、残念ながら私はその内容に入っていくことまではできません。ただ「他者」が「時間」と大きく関わっていること、それをレヴィナスの著作から引用しておいて、次の話の糸口にしておきたいと思います。

この講演の目的は、時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく、そうではなくて、時間はまさに主体と他者との関係そのものである、ということを明らかにすることである。

(エマニュエル・レヴィナス「時間と他者」法政大学出版局、1986、p3)

時間は、待望されているものをめざすことなき待望として考えられなければなりません。~を待望するという志向性をみずから呑み込んでしまったかのように、時間は忍耐として、純然たる受動性として、能動的引き受けなき純然たる受苦として待望するのです(能動的に引き受けうるような苦しみとは正反対なのである)。

(エマニュエル・レヴィナス「神・死・時間」法政大学出版局、1994、p40)

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